自我はあなたの味方のフリをすることをやめます。
本当の光にふれるということが起こったからか、
深い獰猛さという闇が浮上していきている。
自我は、あなたの味方のフリをするのをやめます、
みたいな文章があった気がするけど、
そんな感じだ。
今まで、自我が「これであなたは幸せを手に入れることができますよ」
と勘違いさせる道具に使っていた偶像を使って、
その獰猛さをいかんなく見せてくれている。
たとえばカープ。
スポーツニュースのコメント欄に、
終わることのない攻撃としてあらわれている獰猛さしかみえない。
この偶像をつかって、貪り喰うように相手から肉を引きちぎってきて、これでもかと傷めつけてもその飢えはまったくおさまることがなく、獰猛にまたあたりを徘徊しはじめ、獲物をとらえようとする。
そのために何度も終わっている同じ過去や未来を繰り返し再生しては、そこからひきちぎり、貪り喰うということを繰り返し繰り返しやめずにいる。
肉体もそう。
これを使えばあなたは幸せをゲットできますよ、と今まではほのめかしてきた偶像をつかって、
絶えざる攻撃と獰猛さみせつける。
「これであなたは何らかの幸せをゲットできますよ」と自我がほのめかしてきた偶像。
これまではその誘いにのって、生きつ死につつの状態で攻撃性を保持してきた。
でも本当の光にふれるということが起きて、その攻撃性の保持があやうくなってきたという体験があったからか、
こういうことが浮上してきている。
もはやその偶像をつかって未来の幸せをほのめかすのをあきらめて、そのすべてであった獰猛な攻撃性を全面にだしてきている。
イエス、聖霊、マリア、どうかいっしょにこれをみとおせますように。たすけてください。
ありがとうございます。
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調べたらあった。第21章セクション4段落3。
『もしあなたが内側に目を向けて、そこに罪が見えなかったとしたら、どうだろう。
この「恐ろしい」質問は、自我が決して尋ねることのない質問である。
そして、今それを尋ねているあなたは、自我の全防衛体系をあまりに深刻に脅かしているので、もはや自我はあなたの友を装うこともしない。
兄弟たちにつながった者たちは、自分のアイデンティティーが自我の中にあるという信念から自らを切り離した。神聖な関係とは、あなたが真に自らの一部であるものとひとつにつながる関わりである。
そして、罪を信じるあなたの信念はすでに揺らいでおり、今や、あなたは、内側に目を向けてそこに罪を見ないことを、全面的には嫌がってはいない。』
(『奇跡講座上巻』 中央アート出版 P558)
秘行のコンセプトも、イエスといっしょにこの闇、獰猛さをみとおすためのたすけになってくれている。
解放のような体験があったあとでも、
何度でも何度でもこうした闇が浮上してこうようが、
それをイエスといっしょにみとおしていくしかない。