おぞましいもの

 

今日の勉強会のももこさんのシェア。

非常にたすけになった。

けもの以下の、理性・知性を失ったばけもの的、コミュニケーション不能の気色悪い存在としての
Kさんと自分がかなさった。

そのように感じられたことは恩寵のようにかんじた。

 

けんたが周りの人にむけている肉体存在としてのジャッジ(美醜とか老いとか)とあわせて、けんた自身にはこのようなジャッジ、気色悪さをみているんだときづかせてもらえた。

自分自身についていちばんおぞましいと感じていること(今の時点で感じられる限りではあるけど)、
それに触れさせてもらえたことに、地の底に足がついたようなほっとしたものが感じられる。

自分自身におぞましさを感じてることを受け入れることで、ゆるしへの第一歩を踏み出させてもらえると感じる。

ももこさんのシェアを通じて感じさせてもらえたもの、こういうかたちでも、マイティコンパニオンに恩恵を与えられてるんだ・・・というように感じた。

ありがとうございます🙏🙏🙏

 

 

 

するとなんか感じられてきたこと。

人とコミュニケーションとったりするときに自覚しとる「わたし」って
本当にかりそめのものなんだなということ。

だれかとコミュニケーションとるときにわたしだと思ってるわたしって、
そのときに精一杯「わたし」についてのデータをかき集めた上でつくられたかりそめの「わたし」なんだというかんじがしてきた。

そのかりそめの下にこういうおぞましさの感覚が隠されているわけで。

このかりそめのわたしは持続しない。
その都度その都度データをあつめてそれっぽくつくられる。
ワードプレスみたいに。

便宜上、その都度形作られてそれっぽく見せられてるだけで、実体がないもののように感じられてきた。

 

 

 

 

 

静岡〜石川〜新潟の旅②

ーーーーーーーーーーー

悲惨さしか見えてないこのわたしのこころの全部、存在のすべてを
(たとえ悪い例としてでもいいから)
全体である「わたしというひとつのこころ」のためだけに使ってください

ーーーーーーーーーーー

この祈りに触れることができてから、
こころの奥底ではほっとした感じを感じていた。



そのおかげもあって、
翌日目が覚めてから、少しずつファンクションに参加させてもらえるようになっていった。

こんな状態でも、扉の取り外しなど、ファンクションを与えてもらえるのがありがたかった。

瞳孔は開いて呆然としたままで、
誰とも目を合わせられないどころか、
目を中心とした半径50cm圏内にも視線をやれないくらいだったけど。

 

 

そのようにして、
エクスプレッションセッションの撮影が始まった。

冒頭ののりこさんの言葉を聞きながら、
なぜかわからないけど涙が流れてきた。

それから、
自分が感じている無価値感と、
今こころにある祈りに至った経緯をエクスプレッションさせてもらった。

 

こころにあったものを
こうしてみんなの前で口を使って表現させてもらえるだけで、
あの祈りに触れて以来こころの奥底で感じていたほっとした救いが
この自分が生きている物理次元にあふれてくるような感じがして、
すごくホッとする感じがした。

 

 


そのあとじゅんこさんがシェアしているとき、
そのなかで
「闇が上がって何もできなくなっているけんたにまつわって怒りを感じていた」
という内容のことが話されていた。

自分のなかにも、
無価値感で動けなくなっていたときに
きっと周りの人からいろんな思いや感情を向けられてるんだろうな、
という心配、不安、恐れがあった。

でもじゅんこさんのそのシェアをきいたとき、
ぜひともその怒りについてくわしく教えてほしいと思った。

 


それをはっきり受け入れたいというか、
逃げたくないというか、
それがあっても、それを聞いても、完全に大丈夫なんだということを体験して知りたかった。

だから詳しく聞きたいと思ったし、聞いても大丈夫だという感じもしていた。

 

それを伝えると、じゅんこさんはその怒りについて、
どういう状況でどういうふうに感じて怒りがわいてきたのかといったことを詳しく話してくれた。


それを聞けて、やっぱりありがたいと感じた。

 

それは問題ではないと教えてもらえたような。

 

 

そのあとのりこさんの促しもあって、
じゅんこさんと目を合わせて話し始めた。

人の目を見て話せたのは前日の中華レストラン以来だったと思う。


そのときはまだ無価値感のなかで呆然としている部分もあったので、
じゅんこさんの目の中に無防備にひろがっていくという感覚にはならなかったけど、
目を見つめながら、おだやかな、やさしい感じを感じていた。

そして「信頼」ということばがじゅんこさんをみつめながら浮かんできた。

 

 

このプロセスをとおして、たぶん多くの癒やしが与えられたのだと思う。

自分ではよくわからないけど。


でもじゅんこさんと目を見て話したあと、
ひとつの何かを通り抜けた感覚と
またファンクションに使ってもらいたい、という感覚を感じていた。

 

 

 

 

 

マイティコンパニオン

 

ファンクションについて、
れいさんとミーティングしようとなった。

zoomでつながって初めに祈ったとき、
自分のなかでは、このファンクションをかたちとしてうまくいかせよう、
という方向に意識が向いていたことに気づかせてもらえて、

まず最初にそのことについてシェアさせてもらった。

そして「やっぱり、何においても、愛への自覚を阻んでいるものを浮上させて開放させていくという目的を忘れずにいたい」というようなこともシェアさせてもらった。

 

するとれいさんに「撮影旅から帰ってきて、どんなふうだった?」と聞かれた。

それで、
今までになく、リトリートや撮影旅のときと変わりない「本当に聞く姿勢」みたいなものが日常にも入ってきてると感じていて、運転時に味わった一瞬一瞬イエスにたずねて動きが決まっていくような感覚を感じるときもあること、

それと同時に、そんななかでも行動としては以前と同じような時間の使い方(エロ映像をみたりカープの記事検索など)もしてること、などを話した。
(それについて話すのは嫌だったし恥を感じたけど、話すしかない感じだった)

 

でも総じて、旅から帰ってきてからの自分の状態はいいもののように感じていて、それを伝えたいと思いながら話していたと思う。

 


話し終わると、今度はれいさんが自分のことについてシェアしてくれた。

その内容は、
今もあのときの奇跡が続いている感じで、感謝の中でイエスに包まれているような状態が続いている、というものだった(自分の記憶なので不明確です)。

 

れいさんのそのシェアを聞いたあたりから、
自分のなかに

れいさんと張り合う思考・感情、
おれのほうがより多く癒やされんといけん、
お前はずっと沈んどれ!お前は癒やされんな!

みたいのとか、


れいはずっと奇跡のなかに居るという「理想的」な状態でただしく過ごしとるのに、
けんた、お前は相変わらずエロ画像とかみて何やっとんじゃ!

みたいな比較の思考や自己攻撃みたいなものがどんどん上がってきた。

 


その思考感情についてれいさんにシェアさせてもらった。

 

そうやって、上がってきたものをシェアしていたとき、

なんというか、これまでにないような開放感を感じながらシェアしていた。

開放感、力がみなぎってくる感じ、うれしさを感じながらシェアしていた。

 

 

じゅんこさんが何度かシェアしてくれた、
のりこさんやラファエルの打ち明けをきいたときに感じたという

「それをシェアしてくれてありがとう〜〜〜!!!!」
「それを聞けてうれしい!!!」

というよろこび。

あれってこういう感じなんかな、と思った。

今のケースは、自分でシェアして、自分でよろこびと開放感を感じとるんじゃけど。

 

 

そのあとれいさんが何かしゃべった。

 

するとそれだけでまた同じようなのが上がってくる!上がってくる!



そしてまたその上がってきたものについてシェアする。

するとまたシェアしながら開放感とうれしさを感じる。

 

そのあとまたれいさんが何かしゃべる。

するとまた同じようなのが上がってくる。

またそれについてシェアする・・・・


こういうのを何回か繰り返すことになった。

 


こうして毎回上がってくるものをシェアするとき、
どういうわけか、毎回めちゃくちゃすごい開放感が感じられた。

上がってくる文句・不満・攻撃の思考感情、
それらはでてくることはでてくるんだけど、
ただでてくるだけなかんじがして、
ちゃんと口に出して表現してあげると光に消え去っていく感じ・・・。

本当に消え去るために出てきてるような感じで、
それらを口で表現しているあいだ、
その背景にひろがっている「なにか」の広さ・大きさ・うれしさにどんどん開かれていく感じだった。

 

ただ、本当に無尽蔵かと思えるくらい、
不平不満みたいなもの、「やみ」は、でてくる、でてくる。


上がってくるものについて話さずにだまっていることを想像すると、
とてつもなく滞ってしまう、重くなる、すべてが止まってしまう・・
そんなように感じられる。

そうじゃなくて、
こうしてあがってくるものについて表現させてもらっていると、
その表現することそのものがすごくよろこびにみちてる感じで、
しゃべりながら開放感とよろこびが感じられる。

 

 

そうやっているうちにこんなことに気づけてきた。

自分のなかにれいさんにたいする根深ーーいさげすみがあって、
それをずっと固定したものとして持ち続けてきたということ。

それを前提に張り合っているので、
れいさんが癒やされることがゆるせん!みたいな思考が
その前提から上がってきとるように感じた。

そしてこの「さげすみ」みたいな前提が、
ほんっっっっっとうに愛の自覚への障壁となっていることが、
これまでになくありありと感じられた。


それを今こうしてマイティコンパニオンとの関係のなかで
浮上させて開放させていけることは、ありがたすぎる。

 



もうひとつ気づいたのは、
最初に「帰ってきてどうだった?」とれいさんに聞かれてシェアしたときは、

「けんたは今、これこれこういう状態にいるものなんです」

みたいに「ある一定の者」として捉えようとしていて、
それを説明しようとしていたように感じた。

それにたいして
この上がってくるもの(いわゆる「やみ」)をただただ表現させてもらっているときは、
そういう固定した「者」というのはいない感じがして、
ただただ上がってくるものが解き放たれたあとに残るであろう
めちゃめちゃ大きなスペースのようなもの、広がりが感じられて、
それにたいしてうれしいと感じていた。

 


今までも、例えば去年の三崎口とかで、
相手にたいして「やみ」を告白するという形は起こったことがあったと思うけど、
随分重苦しいものだったと思う。

今回のはまったく比較にならないくらい軽くて、
しかもエクスプレッションしてるとき、その表現そのものに開放感とうれしさが感じられた。

 

何が起こってるのかわからない。


ただただ、
このような経験をさせてもらえるんだなー、、、
これがマイティコンパニオンなんだなー、、、

と、しみじみとありがたいと感じられた。


本当に、ありがとうございます。🙏🙏🙏

 

 

 

 

 

静岡〜石川〜新潟の旅①

 

 

すべて書かれている。
全部つながっている。ひとつとして。

 


「今回の撮影は熊野・伊根の舟屋の旅のようにみんなで行く感じがする」と、のりこさんがインスピレーションを受け取ったこと、

このメンバーで行くことになったすべての流れ、

あのときにあの独特な駐車場の中華レストランに行くことになったこと、

車の移動場所についてじゅんこさんがインスピレーションを感じて、
それについてシェアしてくれたこと、

それをうけてラファエルがSさんの話をすることになったこと、

場所はそれほどよくないはずなのにあの宿が選ばれたこと、

雨が降り続いて2日目にあの宿でエクスプレッションすることになったこと・・



まだまだ無数にあるだろう、そういったあらゆる「はからい」によって、

今回「けんた」をとおして体験された奇跡や恵みへと繋がれていったようにみえる。



その計画について「けんた」は何もしていないように見えるけど、
もしかしたら「けんた」も含めた皆の祈りの結果ともいえるのかもしれない、、、

・・とか思うと、本当に私たち人間としての意識には到底、この全体像をつかめそうにない。

まじで圧倒的に私たちにはわからない。

 

聖霊のはからいの全体像についての圧倒的なわからなさを今回こうして実際に見せてもらえたことには、

とても広がりを感じる。

まじで私個人の視界なんて何も見えてないに等しいんだ。

それぐらい、聖霊の視点というのは莫大なひろがりをもった巨大なものなんだ。

 

その壮大さ・巨大さを感じられるのはありがたいし、
(自分に見えているあらゆる限界が、本当に真実ではないんだ!と教えられている感じがして)安心な感じがする。

 

 

 

 

 

旅のはじめ、三保の松原での撮影まで、

表面的な意識の上では(今振り返ると)

「おれはまあまあやれている」
「順調だ」

といったマインドを持っていたと思う。


それがあの独特な駐車場の中華レストランに駐車したのをきっかけに、

自分のなかにあった
ファンクション中の運転で過去に立て続けに車をクラッシュさせたこと、

そこからくる運転への自信の欠如、

「うまくやれる者」でいることができないという
巨大な罪悪感が浮かび上がることになった。


「なんでこんなことで??」っていうくらい、

運転の自信の欠如というトリガーが不釣り合いに思えるような
強大な罪悪感を感じ始めた。


その中で、


「失敗しないように、うまくできてるように見えなければ。見せなければ。」

「うまくできない、やれないとしたら、そんな俺は超絶罪深い」

そのときは意識できていなかったけど、
完全にこのような思考と恐れのもとに動いていた。

行為者として。

 


「形としてうまくいかせる」という結果をゲットする切迫感を感じて、
うまくいかせるためには車の駐車位置をなおしたほうがいいと考えた。

でも1人で移動させにいくのは違う感じがして、
じゅんこさんに手伝ってもらえるように頼んで、
いっしょに行ってもらえることになった。

 

 

そのときの自分は完全に行為者で、恐れから車の位置を移動させた。

そしたら移動させた場所は本来駐車してはダメな場所だったらしく、

お店の人がでてきて「そこはだめだよ!」と言われ、
結局また移動しなおすことになった。


そんなわけで再度移動させたわけだけど、
そうやって駐車しなおした最終的な場所について、

じゅんこさんは最初に「そこだ」というインスピレーションを感じていたこと(でもそれをその場ではっきり言えなかったこと)を後で皆にシェアしてくれた。

 

そのシェアを聞いたとき、

「じゅんこさんはそうやってインスピレーションを聞いて受け取っていたのに、

俺はといえばまったく聞こうともせずに、
恐れのなかで行為者として『俺がやる』と行動してしまっていたんだ!!!

なんてだめな、聞けないやつ!失敗者め!」

というような恥の思い・感情がわいてきた。


そしてそうやって感じ始めた恥の思い・無価値感は、
じゅんこさんのシェアを受けてラファエルが話した話を聞くことで、
何千倍にも巨大化して感じられることとなった。

 

 

その話。

メキシコのコミュニティで重たい彫像を移動するファンクションをやっていたとき、

ラファエルはSさん(ラファエルのマイティコンパニオンの1人)が「行為者」としてやろうとしていることに気づいていたのに、はっきり言わなかった。

その結果、Sさんは彫像をクラッシュさせることになった。

またその後、ラファエルが管理していた車をSさんが運転させてくれと言ってきたときにも、ラファエルは同じことを感じたけど、今度もはっきりと言えなかった。

その結果、Sさんは車をクラッシュさせることになった。

 

この話をきいたとき、

Sさんが置かれたシチュエーションの
あまりのいたたまれなさを想像し
(どうしてこんなことをしでかしながら、Sさんはコミュニティに居続けられるんだ!??)、

さらに自分はまったくSさんと同じなんだと感じた。

(じゅんこはラファエルのように気づける者で、けんたはSさんのように「気づけない行為者」で、車をクラッシュさせる)

 

 

聖霊に耳を傾け、よく気づき、聞いて従い、ただしく退いてBe Done Throughでことをなす」のが正しいとされている(と思ってる)道において

「まったく聞けず、『俺が俺が』と突っ走ってるくせに『やれてるつもり』になり、最悪なことに物理的にも何かをクラッシュさせてしまう」

という完全な落伍者・失敗者・ダメな者。

 

それが自分だったんだ・・・・・・・。

 

 

 

この認識と、そこからくる深い無価値感に、
じわじわと、どんどんどんどん深く飲み込まれていく知覚がおこっていった。

 

まじでダメじゃん。

ここにいちゃダメなやつじゃん。

 

その後食べ終わって宿まで帰るときも、
何か感情が上がっているけんたは今運転者としては危険だからということでのりこさんに変わってもらうことになった。

そこから無価値感がどんどん増幅していって、

無価値感のなかで身動きがとれなくなっていった。

何かすこしでも自分が物理的に動くと、
自分の無価値さが外側に露わになっていくような感じがして。

目を開けることすらできなくなった。

宿へのナビゲーションも含め(本来であれば助手席に座った自分がやるべきこと)、
そこからみんながファンクションをしているのにまったく動けない、
ファンクションもできないやつになってしまった。

そのことも、自分の無価値感を際立たせることになったけど、

だからといって形だけファンクションをやることにもまったく救いも解決もないような感じがして、

身動きがとれず、地獄でしかなかった。

(ちなみにこの間、ずっとあるイメージにたすけを求めていた。またいつか書いたり話す機会があればそれについて触れたい)

 

 

夜、宿の外に出て、しばらくずっと、ひとりで呆然としていた。

時間がたつにつれ、すこしずつ何かを祈り始めたかもしれない。

本当にどうしようもない苦しさを感じて、地面にひざをついてあたまを地面につけて祈るときもあった。

(そうすると少し楽になる感じがした)

 

そうしてたすけを求めているうちに、

最終的にひとつの祈りに触れることになった。

 

これまで何かをする前とかに祈っていた、

コース第二章にある「私は真のたすけとなるためだけにここにいる」という祈りから派生した祈りだった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーー

わたしには、この悲惨なこころのどこに救いの可能性があるのか?まったくわからない。

 

この「悲惨な失敗者」ということしか見えてないわたしのこころ全体、まるごとそのままを、

全体である「わたしというひとつのこころ」にとっての真のたすけとなるためだけに使ってください。

 

ーーーーーーーーーーーーーーー

 

(この祈りに触れたときの思考として、
本当にこんな悲惨な自分のこころがどうすればひとつのこころのために真のたすけとなりえるのかまったくわからない、

でもじゃあ、
たとえ最悪の例として、悪い例としてでもいいから使ってください、というのがでてきた。

たとえ悪い例としてでも、全体であるひとつのこころのどこか別のパートのたすけになるのなら、
その結果がこのわたしというこころにもたすけとして戻って来ることになるから。)

 

 

このように祈れたとき、

はじめて苦しみがやわらいだ感じがした。

 

この悲惨なこころを自分ではどうすることもできない。

でもこのぜんぶ、このこころのぜんぶを、たとえ悪い例としてでもいいから、全体である「わたしというひとつのこころ」のために使ってください、と祈ることはできる。その自由はある。

それを止める権利、お前にはそれを祈る価値はないと止める力はどこの誰にもないことだけはわかる。

誰が何と言おうと、仮にデイヴィッドやカースティンやフランセスやのりこさんやラファエルが何と言おうと、周りがどうであろうと、お前はこんなにもできてない失敗者だからその資格はないとかなんとか言おうと、わたしがこのように祈ることは誰にも止めることはできない。

それがとてつもない救いのように感じられた。

 

そしてもし「わたしというひとつのこころ」にとって真のたすけとなるために使われるのであれば、

それは今悲惨さしか見えていないこのわたしのこころにとっても真のたすけということになる。

 

まったく失うものがない。与えられるものしかない。

 

この祈りに触れることができたことにホッとして、

まだ呆然としたままではありながら、この祈りのなかで床につくことができた。

 

 

 

 

 

 

Joining , コネクション

 

きょうの勉強会でのりこさんが話されていた、

「けんたのエロ・性欲への囚われも

他のあらゆるかたちであらわれる依存や中毒と同じなんだ」

という話がとてもたすけになった。

 

そして昨日聞いたばかりのひとつの寓話がここにつながった。

 

ひとりの男。

社会的には成功していて立派に生きているように見えるが、

どんなに成功してもどこか満たされないものを感じていてアルコールに逃げている。

もうひとりの登場人物は

外にでていくことができない、ひきこもりの女性。

この二人はそれぞれ自分で作った箱のなかで生きて不自由さを感じているけど、

その箱のなかで「これは自分のものだ」と思っている趣味嗜好があり、

スピリットはそれ使って導いていく。

 

そうしてスピリットの導きで二人は出会い、

つながりを感じ、

あるインスピレーションに導かれて二人でバーに行くことになる。

 

女性にとって、これは自分の箱の外に出る大きな機会であったし、

男性にとっても、いつもなら酒をかっくらうことにしかならない現場にいくということは

彼にとっての大きな機会だった。

 

彼らにとってのそれぞれの箱を突破していく機会は、

「Joining」、いっしょになること、によって与えられることになった。

 

そしてバーに入って起こったこと。

彼はそのときに感じていた真のコネクションによって、

もはやアルコールを必要だと感じることはなかった。

・・・・という話。

 

この男性の話(アルコールへの中毒)と、

今日聞いた、けんたのエロ・性欲への囚われはあらゆる形の依存・中毒と同じなんやという話がバチバチにつながった。

ああ、おれはコネクションの感覚の欠如をこれで埋めたかったんか。

分離の感覚を麻痺させ、維持するために、この中毒に逃げる必要がある。

コネクションがない、分離しているという感覚と、

この中毒に逃げるということがイコールでつながっとったんじゃな、ということがこれまでになく感じられてきた。

 

分離の感覚があるけえこの中毒に逃げるし、

この中毒に逃げ続けるけえ、分離の感覚がキープされつづける。

 

もしも、この寓話のなかの男性のように

真のコネクションを感じられたとしたら、

わしのこのエロ・性欲への囚われは違って感じられるようになるんじゃろうか・・と思ったとき、

大きな何か、大きな可能性のようなものが開かれるような感じがした。

 

今までずーーーっと、自分で自分にもつこと感じさせることをゆるさず、否定してきたコネクション。

それをゆるせるのか・・・

そしたらぜんぜんかわって感じられるのか・・・

みたいな感覚。

 

このようにして、

毎日教えてもらえることに感謝します。

 

ありがとうございます。

 

 

 

 

アイノウマインド

この前あきなさんの勉強会のなかで話されていたことを聞いていたとき、

アイノウマインドはいろんなレベルにあるんだな、と教えてもらえたような感じがした。


この世界の具体的な内容について「これ知っとる、俺は知っとる」っていうのだけじゃなく、

自分がこころの奥の奥で感じている罪深いということも、アイノウマインドのひとつなんやな、というのが感じられてきた。


神をいちばんにする、という声明のもと、

あらゆるレベルのアイノウマインドを光に持っていく。

具体的なレベルから、根源的レベルまで、全部。

具体的なレベルをぼやかさないのは特に大事なような感じがする。


そうやってみえてくる自己憎悪。愛の欠如の感覚。

そういうのもできる限り光に持っていく。

 

今日が最後の日だとして、

この自己憎悪とそこからの投影をそのままにしといていいのか??

そのままダラダラとこれが、こういう日常が続くことを肯定してていいのか??


エスによる見方という視線視点が本当にあるのなら、

本当にそれを教えてほしい。

 

アイノウマインド。

エスより俺の方がこれについてよう知っとる、ってやりよるんよな。

俺には罪があって欠如しとるけえ、これをゲットして埋めんといけんとか、そういうのも含めて。

この見方についてイエスより俺の方がよう知っとって正しいってやっとる。


そういうのをぜんぶ光のもとへ運んでいきたい。

神をいちばんにするという目的のもと。

 

 

 

 

ブラザー・サン シスター・ムーン

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『ブラザー・サン シスター・ムーン』の映画ギャザリングを終えて・・
カープやエロなど、時間をムダにしてるとジャッジしてることについて、
現時点ではこうするんだ、これを覚えておくんだ、
ということを教えてもらえた感じがしている。

 

声明をする。

神をいちばんにする。

内にも外にも罪などありえないという認識を取り戻したい。

その欲求にふれる。

その目的のもと、
すべてを聖霊の光のもとへと運ぶ。

いいもわるいも、ひかりもやみも。

 

神の愛から除外してほしい、
そうすることで「わたし」が特別でありたい、
という欲求があるのをみとめる。

その欲求のもと、
罪がありえると信じ、神の愛の欠如、恐れ、罪悪をうめるべく、
いろいろな神(愛)の代替えをでっちあげていることをみとめる。

そういったものがでっちあげられているのを認めながら、
それらすべてを、
いちばん上の声明のもと、
聖霊の光のもとへと運び続ける。


その結果
仮にどんなめぐみが与えられてたとしても、
それは私の決断のおかげではない。

聖霊のおかげ、神のおかげ。