自分で参加して、自分で撮る。

この前の勉強会で、映画プロジェクトについてのりこさんが話していた言葉がぐわっと入ってきた。


自分で参加して、自分で撮る。(というような意味の言葉だったと思う)

なるほどー・・・・!!!

 


この世界から出るために必要なことのように感じる。

「参加する者」だけだと、被害者でずっといられる。

なるほどーーーーー。。。

 

 

「撮る」ということは、
この自分というキャラ、自分が見ている世界にまつわって起こっていると信じてることすべてを、
聖霊に手渡すことの象徴のように感じられる。


参加すること、それを撮ること、
その両者である意識をもつ。


これをとおして、自分が同一化しているすべてを聖霊に手渡すということをやらせてもらえるのか、、、という感覚。

 

 

(実際映画を撮る撮らないに関わらず、人生すべてをそのように使ってもらうといいのかもしれない・・)

 


こうなったら、自分が同一化することで生じている(と思っている)すべてを湧き上がらせてゆるして表にだしてあげるしかすることがない、と感じる。


わたしはそれを撮る者でもあるから、大丈夫、という感じ。

思いっきり、出し尽くしても大丈夫。

 


大丈夫だという聖霊の見方に一致して、聖霊の見方を受け入れるために、こういう「自分で参加して、自分で撮る」という機会が与えられてるのかな。

「参加者」であるだけだと、被害者でい続けることができて、
聖霊の見方との一致点がありえないのかな、という感じ。

 


ラファエルがいなくても撮るんだ、ということの意味が以前はまったくピンときてなかった。

このときの勉強会の話をきいて、少しずつ入ってきつつあるかもしれない。

 


映画プロジェクトがそういう機会なのであれば、
やろうぜ。。そのために聖霊に耳を傾けて、聖霊に使われようぜ。。。という、
今まで触れてなかった、腹の下のほうで眠っていたモチベーションが起き上がってくるような感じがする。

 

 

 

 


この前のミーティングで感じたれいさんへの嫌悪感をきっかけに平安へのツールと準備ワークをやってみて浮かび上がってきたこと。

shingaheart.jimdofree.com

 

 

愛をお前が拒否ってるんやと指摘されるのが怖い。

愛はふんだんに与えられとるのに、お前が自分で拒否っとって、

被害者の位置に自分を置いて、

その前提であれやこれやとやりながら、

「私は愛を与えられていない被害者」という土台の上に「お前」という自己概念を維持しつづけとるんやと

指摘されるのが怖い。



本当は愛がふんだんに与えられとったのに、勝手に自分で拒んどったんじゃと教えられるのが怖い。


今までこれが自分だと思って生きてきた自己概念が無になりそうで怖い。



 

自分が愛を拒否ってて、そう認識することを恐れてるんやというこの気づきはたすけになると感じる。

愛を受け入れるために通らないといけない気づきのように感じる。


そっちの方に明るい何かが感じられる🙏🙏🙏

 



今日は駅前でマルシェのようなイベントが開かれていて、

たくさんの人たちが幸せそうだった。

 

 

 

 

 

攻撃や死が不可能な場所

このまえももこさんにエクスプレッションをお願いした。

 

その頃触れていて、今もとどまっているレッスン167

There is one life,and that I share with God



このレッスンの中で言われてる
one life に溶けたいという欲求のような感覚を感じていて、

それと同時に
その欲求を感じたときにあらわになる

one lifeに溶けるのを防ぐように自分で作った
大きな壁みたいなものもはっきり感じられはじめていた。

 


トリガーでいうと、
兄弟のブログで、

あきなさんとかじゅんこさんとかはちゃんと聖霊の声をきけるんやな

ほいで導かれてみんなと溶け合ってつながっていってるんやな

とか、

ももこさんもはっきり導きを聞けるし、
しかもパートナーまでおってめっちゃリア充やんけ・・

 

こういうような嫉妬・羨望。

 

そういうふうに

「この道でデキるやつ」
リア充的な意味でデキるやつ」
(あるいはデキてないやつ)
(記憶のなかにあるすべての人に対してもこういうレッテルを貼っとる)

「ダメな自分」(あるいは勝たんといけん自分)

との間に絶望的な壁を築いとるのが、よりはっきり感じられてきた。

負けて恨むか、打ち負かして勝ち誇るか、どっちかしかなくて、
絶対に溶け合えん。


エスの言うone life に溶けたいという感じはあるのに、
こんな俺じゃ絶対にムリや。


このどうしようもなさ、
自分で作ってしまった壁のどうしようもなさをエクスプレッションさせてほしかったんだと思う。

 


エクスプレッションを聞いてもらって、
本当に聞いてもらえるだけですごく助けられる、と感じていた。


そしてリア充ももこにたいして羨ましいと感じていると話していたとき、
そういう「羨ましいんだよ!!」とか「俺にはムリだー!!!」とかの心の叫びが、
何か中心の肝心なところを避けるためのもの、
真ん中にあいた大きな深い穴に落ちないように、その穴の周辺で叫んでいる叫び声のように感じられてきた。

何かがはぐらかされてる感じ。


ももこさんにスペースを保ってもらいながら、
その真ん中のほうに触れたいと感じながら、
感じていると、

「しねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしね」

とノートに書きなぐっているみたいなのが感じられてきた。

 

あああああ、、、、

こんなのがあったんや、、、、

と感じた。


これがあると話しながら、

この「しねしね」言ってる感情?思い?みたいなのを感じていた。

すごい根源的な攻撃のような、憎しみのような、

自分という人間にも他人という人間にも「しねしね」言っている。

「しねやおらこるぁあああ!!!!!」って言ってる。

 

 

そうやって「しねしね」言っている何かを感じ続けていると、あるときから、

「いくらでもしねしねいえるんや!!」

「いくらしねしね言っても、だれも死ねんのんじゃ!」

「ああああーーーー、しねしねしねしね思う存分いってよくて、なんでってだれも死なんのんじゃ!!」

「いくらしねしねしねしねいってもよくて、無効なんじゃあああああ!!!!!!」

 

というところに触れた。


これがめっちゃありがたかった。


なんかいままで言葉で聞いてきたことが、本当なんじゃと感じられたような。


死は存在しないとか、攻撃はありえないとか、そういうやつ。

 

自分のなかの根源的な攻撃性みたいなものを、兄弟に支えられ安全と感じられる空間のなかで
余すことなく思う存分出してみて、思う存分触れてみて、
初めてそれが不可能だったんだ、リアルではありえなかったんだとわからせてもらえるのか、、、と感じた。

 

ここに触れられた感覚が超絶ありがたくて、笑けてきた。

 

ここに触れられたら、この世界であると思っとるどんな問題もありえんやんけ、と感じた。

 

 

何度も忘れたり離れたりするだろうけど、

ここに帰ってきたい。

ここに帰ってきたいと思える場所にふれさせてもらえたのがありがたかった。


ここからなら、one lifeに溶け去ることもできるかもしれないと感じた。


聖霊、ももこさん、ありがとうございます。

 

 

 

今こころにあること

 

「私たちは、『私は』という言葉を使い、『あなたは』という言葉を使わない」。

今3日連続でとどまっているレッスン165

「Let not my mind deny the Thought of God.」

the Thought of Godを否定してしまっているのは、他でもない、私のマインドにほかならない。

 

他でもない「私が」the Thought of Godを否定することで、今のこの眼の前の現実を経験している。

 

 

そんな知覚のなかにいるあらゆる人に、

平安へのツールの準備ワークを当てはめたくなる。

 

shingaheart.jimdofree.com

 

シェアオフィスにいる他の人たち。

幼いころからその勝敗に動揺しつづけているプロ野球の人たち。

「若くてきれいな女」というカテゴリーに閉じ込めている人たち。

記憶のなかにあるあらゆる人たち。

その人たちと、この私という人間。

 

 

自分というキャラも含む知覚のなかのあらゆる人に、

自分であてがった「キャラ設定」があるのを感じる。

 

そしてその設定のせい、ということにしている
深く押し込められた感情があって、

 

それぞれの設定のなかで「最善のこと」「最悪のこと」を想定して、

それを求めたり恐れたりしながら

未来に向かって生きている。

 

 

そうやってthe Thought of Godを否定した世界を維持しようとしているみたい。

 

 

そうやってthe Thought of Godを否定してしまったときの

形と関連のない、無形の絶叫的な絶望的かなしみや孤独感に目を向けなくて済むように、

未来の希望や恐れに向かって生きているのかな。

 

その無形の、形のない絶叫的絶望やかなしみに触れて、表に出してあげたい。

 

 

のりこさんの話のリンクが貼ってあった、はるかさんのブログの文章に教えてもらえた。

カタチの無い罪の意識があまりにも恐ろしい
これをカタチあるレベルに移し替えたいとやろうとする自分を発見することが大事

haru3o.hatenablog.com

 

 

 

 

そしてthe Thought of Godを否定しなかったら、どうなる?

 

the Thought of God なんて想像もつかないし、そんなものがありえるなんて可能性も今まで想像したこともなかったんだ・・と感じた。

否定をやめるだけで、そこにあるものなのか。

そこに開いていったらどうなるのか。

「私に想像できること」の完全に外にあると感じる。

 

 

the Thought of Godについて、知りたいです。

教えて下さい。

 

 

 

 

 

壁紙

welcomejwithintention.hatenablog.com

 

エスのところに、自分のものだと思ってるものを全部置かせてほしい、
と思ってから、

パソコンの壁紙を変えたくなって

「イエス 壁紙」とかで検索してみた。

 

これがいいと感じた。

このイエスの前に、全部置いていきたいです。🙏🙏🙏

 

 

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置かせてください🙏🙏🙏

 

9月13日、これまでメインだった取引先から「商品がなくなる」とメール連絡が来た。

そのメールを読みながら、ついに来たか、
これで収入がほとんどなくなってしまう、どうしよう、という思考がある一方で、
感情的にはどういうわけか取り乱すことなく落ち着いていた。


これまで何度か、
「この取引先だけに頼っているのは危険。だからもっと他に柱をつくんなきゃ」という思考で何か新しいことに手を付けようとしたことはあったけど、どうしても体が動かなかった。

そこからの「ついに来たか」という思考だった。

 


それからしばらく、
とくにこの連絡を受けた日は、

・・これからも多分「稼がなきゃ」という思考からだと体は動かんだろう。
なので本当に毎日一瞬一瞬のインスピレーションだけに従っていく、というのをやっていくことになるのかもしれない、、
というのを感じていた。

それは恐ろしさもあるけど、広がりを感じるものでもあった。

 

 

同じ9月13日、
ある会社からお話ししたいというメッセージが来ていた。

その会社について、自分が取り扱うことのできそうな商品について調べてみると、ほとんど売上のたちそうなものはなかった。

なので、これまでの取引先にとってかわるようなものとは到底思えなかった。

でもたとえそうだとしても、
同じ日にメッセージがあったのが何かのサインのように感じられて、
ひとつのドアが閉まったら、別のドアがちゃんと開かれますよ、という象徴なのかな、と感じていた。



その後、その会社の方に会ってみると、
実際はその会社の商品を扱ってほしいという話ではなく、
自分が以前から「いい会社だな・・」と思っていた別の会社とつないでくれて、その会社の商品を扱ってほしいという話だった。

そこから話がすすんでいき、もしかしたら、うまくいけばなんとか食っていけるかも、、という期待が、今は自分のなかに沸き起こってきている。

 

 

でも今日、
そもそも彼らが私につながりたいと思った私の実績・力のようにみえるものが、もしかしたらかんたんに吹き飛んでしまうかもしれない、と思える現象を目にして、動揺した。

ああ、この「自分のもの」に
またしがみつき始めとるんやな、、、と思った。


こういうのはもう本当に苦しいし、やめたい。

 

のりこさんが何度か話していた、
車の鍵と家の鍵の置き場所に困って、最終的にイエスの絵のところに置いたらホッとした(といった内容だったと思う)という夢の話を思い出した。


もう本当に、自分のだと思ってきたものをすべてイエスの管理下に置かせてもらいたいです。

これは自分のもので、自分がやっていくんだ、という苦しみから自由になりたい。

 

私の仕事も、私の体も、私の関係も、私の思考感情も、私の人生すべても、

すべてをあなたのもとに置かせてください🙏🙏🙏

 

 

 

 


じゅんこさんにたいしても
れいさんと同じように平安へのツールの準備ワークで、そこにある思考や感情をはっきりさせることがすごく助けになった。

 

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【動揺を感じる状況】

じゅんこが聖霊に愛されていてどんどんいろんな人とつながりや一体性を感じていくことについて、置いていかれていると感じる。

じゅんこのように「聖霊がこう言ってるよ」とか、身近に聖霊を感じられないことについて、自分はだめだと思う。

自分がつながったりたずねた気になっているだけで、実は「聞いているオレ」という自分像のためだけにそのように振る舞っているにすぎないことを暴露されるように感じて劣等感、不安、怒りを感じる。

じゅんこのように、(聖霊にもみんなにも)本当にオープンになっていくことについて恐れを感じる。

じゅんこに「あなたは閉じている。もっとオープンにならないと。」「それが正しいんだからあなたもそうするべきだ」と言われていると感じ、自分を未熟で閉じていてわかっていないと否定されているようで怒りと屈辱感と悲しみ、寂しさを感じる。


【キャラ設定】

じゅんこ:

容赦なくコアへと突き進み、けんたにもそうするように突きつけてくる嵐の中心。
その過程であることないことこっちにつきつけてくる混乱の源。
聖霊の愛を受け入れ開かれていっている、先に進む者。


けんた:

「自分はやれている、すすんでいる、人より上にたてている」というハリボテをたよりに生きてきたが、容赦なくコアへと突き進むじゅんこによってそのハリボテをボロボロにはがされ、打ちひしがれる者。

聖霊にたいして頑なに閉じている、救いようのない頑固者。

 

【感情】

無価値感
屈辱感
怒り
憤激
激怒
嫌悪感
悲しみ
寂しさ

さらにその奥で、
恐怖

 

【最悪の想定】

・じゅんこを始め皆がどんどん開かれ一体性を感じ開放されていったのに、結果、オレひとりが閉じたままでいて、皆からあわれまれる惨めな存在であることが確定すること

・じゅんこにどんどん追い込まれていって、絶対に見たくなかった表現したくなかった自分の中の何か、絶叫的な絶望の叫びのような何かに直面させられること


【最善の想定】
・自分のこころのあり方がじゅんこにも皆にも「聖霊と一致した、開かれたすばらしい心のあり方だね」と認められ、「閉じてる」とか言われないこと

 


①(A) 

私が、

じゅんこが聖霊の愛を受け入れてどんどんいろんな人とつながりや一体性を感じていること、

聖霊がこう言ってるよ」とか、身近に聖霊を感じ、(聖霊にもみんなにも)本当にオープンになっていくこと、

じゅんこに「あなたは閉じている。もっとオープンにならないと。」「それが正しいんだからあなたもそうするべきだ」と言われると感じること、

について考えるとき、


②(B)

無価値感
屈辱感
怒り
憤激
激怒
嫌悪感
悲しみ
寂しさ

さらにその奥で
恐怖

を感じる。

 


③(C1)

なぜなら、

・オープンになることを強要してくるじゅんこ、
・閉じたままのオレ

が責められるべきであるし、


(C2)

あるいは未来に、

・じゅんこを始め皆がどんどん開かれ一体性を感じ開放されていったのに、結果、オレひとりが閉じたままでいて、皆からあわれまれる惨めな存在であることが確定すること

・じゅんこにどんどん追い込まれていって、絶対に見たくなかった認めたくなかった自分の中の何か、絶叫的な絶望の叫びのような何かに直面させられること

が起こるのを恐れているから。


④(D)

これらのことは

私のコアには絶対に開かれてはならない絶対的におぞましいものがあり、私はそれを隠さない限り存在することができない、恐怖と不安に満ちたあわれで惨めな存在だ

ということについて私が正しいことを証明しています。


⑤(E)

私が求め(ていた)、期待している(いた)のは、

・自分のこころのあり方がじゅんこにも皆にも「聖霊と一致した、開かれたすばらしい心のあり方だね」と認められ、「閉じてる」とか言われず、今のまま尊重されること

です。

 

 

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容赦なくコアにつきすすむじゅんこによって、

絶対にみたくない内側に閉じ込めている絶叫のような何かに直面させられるのを恐れている。

それに直面するくらいだったら、嘘でもいいからあり方を表面的に認めてもらえて今のまま、ずっとそのままのほうがましだと思っている。

だから深く関わりたくないしぶつかりたくないと思っている。



これはこの真我なるハートという界隈全般にたいしてもっているものでもあると感じる。

じゅんこに限らず、容赦なくコアにつきすすむ兄弟たちにたいしてこう感じている。

恐れている。

 

 

でもその「絶対に見たくなくて内側に閉じ込めている絶叫のような何か」について明らかにしない限り、それを聖霊といっしょに見てもらわない限り、平安はありえないのでしょう。


私は真の平安を知りたい。

 

それまでは、それがどんなものであろうと、

自分のなかにある思考や感情をただただ上げていくしかないのかな。