惨敗

香咲さんの東京セミナーに参加しました。

うまく言葉にできないけど、いい意味でかなりうちのめされた。

ボランティア参加なので早めに会場に到着してから
すぐに感じ始めた違和感。
夢の主人公バリバリなオレだった。
たたかう気まんまんで、勝とうとしていた。
「真我なるハートで学んでいる自分」を武器にして武装化してる。

「自分には何かがわかってる」という思いをつかんでいるあいだは、
ほんとうになにひとつわかることができないんだということが感じられる。

もう降参するしかなかった。

そして香咲さんの話を、ずっと目を閉じたまま、自分の内側を感じながら聴いた。

自分の傲慢さをただただみつめるしかない。

香咲さんの話が、過去のセミナーとはぜんぜん違って聞こえてくる。
真我なるハートでの学びがあったおかげでもある。
そして自分がおちいっていた傲慢さをあきらめるしかなくなってくる。

実践コースで「今香咲さんのセミナーに参加すると、じれったく感じると思う」とか口走っていたけど、とんでもない勘違いだった。

「個人をこえること」
聖霊に使ってもらうこと」にしか幸せはありえない、と教えていただく。

個人をこえてこころを聖霊に使ってもらう。
「オレが」何かわかってるつもりになってるのは全部まちがいでしかない。

それを体験するために、8人でのワークをおこなった。

そのうちの1人の方が、癒してほしいと感じている「問題」を語ったあと、
皆でそれぞれ聖霊を招き、聖霊の保護を感じながら、
「この方がわたしに何を教えてくれようとしているのか、教えてください」
と祈る。
そしてそのこたえを、静かにうけとる。

自分でこたえをもとめようと前に出たり、「あーこういうことね!」と結論をいそがない。
聖霊を信頼して、しずかなこころで受けとる。
この間ずっと、「わたしにはわかりません、わたしにはわかりません」とこころのなかで繰り返していたように思う。
以前は「このあとのシェアで何か気の利いたことをいえるように、何か感じなきゃ!」という思いがあったけど、このときはもう「わたしにはわかりません」しか言いようがなかった。

だんだんとあたたかく感じられ、わたしの肉体への同一化がゆるみ、8人を包み込む大きなあたたかいなにかが感じられていった。


「わたし」が聖霊にお願いする、というとき、
まわりの人と分離した「わたし」がある前提ですべてを行おうとしてきたのか。

でも「わたし」がいて「他者」がいて「聖霊」がいる、という前提ではどんないい感じの気づきもすべてエゴにのっとられてしまうような気がする。

これだと「聖霊」はわたしのなかにしかいないことになっちゃう。そんなのは聖霊じゃないのに。

他者をからだに閉じ込められた他者としてみてる限り、こうなっちゃう。

どんな他者も他者としてみるのではなく、
すべてをゆるしてくれている聖霊をその個人のなかに、その個人を超えてみないかぎり、
ぜったいに救われないな。

体験をとおしてこのことを教えてもらえた今日のセミナーだった。

わたしはわたしをあきらめて、「他者」のなかにみえる聖霊に導いてもらうしかない。