今日のレッスン

今日のレッスン。
わたしはニュートラルな〇〇をみていない。
なぜなら〇〇についてのわたしの考えはニュートラルではないから。

今日のデートも何もなく終わり、わかれるときにまた見捨てられた感がでてくる。
以前だったらこのまま他者攻撃、自己攻撃に耽溺しながらとぼとぼ帰るとこだけど、
今日はそれもありながらそうじゃない部分もあるような感じがしながら歩いていった。
そのあとひとりで今日のレッスンをしながら、彼女のイメージにたいしてもあてはめてみた。
するとどうだろう。
うわ、まったくもってニュートラルにみてない、と気づく。
分離を証明するため、自分が見捨てられていることを証明するための証人としての配役を彼女におしつけているのがはっきりみえた。
そして彼女だけでなく、あらゆるもの、看板、信号、手、地面、石ころ、おにぎりなどなど、
すべてのものが、分離と見捨てられた自分を証明するための証人としての配役をわりあてられて存在してくれていることに気づいた。
うわ、彼女はもしかしてめっちゃありがたいことに、象徴的にことのことをはっきりとみせてくれてるんやないやろか。
めっちゃありがたいやんけ。

そしてこうしてすべてのものに分離と見捨てられたオレの証人としての配役を押しつけてつくってしまっているこの世界のなかで、自分ではどうしようもないことも受けいれるしかなくなってくる。