からだと攻撃

からだがあるという概念と、攻撃が可能であるという概念は、分かちがたく結びついている。
からだに救いをもとめるということは、攻撃による救いを求めているのと同じ。

ずっとこの世界にからだと攻撃だけをみてきた。

殺したい願望。

 

「攻撃をあらしめる考えをあきらめたいです」
「攻撃を可能だとする考えをあきらめます」

「わたしがこのからだなのだとしたら、攻撃は可能だということになる」

このからだに救いがあるという考えを温存しておくために、理想的なセックス関係を「神聖」化してとってきた。
そこに救いがあると。からだをとおした救いが。それに向かって努力しつづけるべきだけど、決して手に入らないものとして。

わたしの真の想念は、わたしのこころのなか、Mindのなかにある。
神のマインドとわたしのマインドは同じ一つのものだから。
わたしはその真の想念を、わたしのこころのなかにみつけたい。

攻撃を可能だとする想念を手放したい。
攻撃を可能だとする想念にもとづいて考えているあいだは、
実は何も考えていなかった。

つまり、からだがあるという想念をもっているあいだは、何も考えていなかった。