リアル

質問15から。
『「奇跡講座」が論じている罪悪感というのは、存在論的な罪悪感のことです。つまり、私達は神から分離することはできたが、それをするにおいては神が破壊されなくてはならなかった(つまり、分離した個々の存在と、完全な一体性とは、互いに相容れない共存不可能な状態である)と、信じることから来る罪悪感です。』

分離した「わたし」が存在していることと、神(=完全なる一体性)の破壊は、同じこととしてわかちがたく結びついている。

そしてこの「存在論的罪悪感」からこの外側の世界がつくられている。

この「外側の世界」が、こうしてつくられたものなので、

昨日のレッスン45で
「あなたが考えていると思っている考え、これはリアルだと思っている考えは、あなたの真の思考・想念とまったく似ていない」
「あなたが自分が見ていると考えている世界は、ビジョンがあなたに見せるものとまったく似たところがない」

とあったように、
この「外側の世界」をつくっているあらゆる「これがリアルだと思っているわたしの思い・思考」や「これがリアルだと自分では思っている見えている世界」は、
神とわかちあっている「真の想念」「真のビジョン」「愛」とはまったく似ているところがないものなのは当たり前なのだった。

「わたしがリアルだと思っているわたしの考え・想念」「これがリアルだと思っている見えている世界・イメージ」
これらは存在論的な罪悪感をみなくてすむように、その上にかぶされたベニヤ板のようなもの。

『この神からの分離というのは、単なる幻想に過ぎず、しかも儚い幻想ですから、それが実在するかのように見せかけておくためには、何らかの強力な防衛のように見えるものが必要とされました。そうした防衛となったのが、<存在する全てである神>を破壊した攻撃にまつわる、熾烈な罪悪感でした。そしてその罪悪感は、「本当のところ、自分は攻撃をしたのだろうか、あるいはそもそも攻撃するということが可能だったのだろうか」という疑問そのものを、埋没させてしまいました。』

もし『「私達は分離していて、愛は破壊された」という前提は全く本当のことではないと』
認識できるようになれば、分離という幻想を維持するための存在論的な罪悪感も、それをすべて覆い隠すための「わたしがリアルだと思っているわたしの考え」や「これがリアルだと思っているこの見えている世界」も、必要なくなる。

今のわたしには、なにがリアルなのか、何もわかりません。