「犯罪」
「犯罪にまきこまれる」とか「身ぐるみ剥がされる」というのに近い出来事が映し出されていった。
大難を小難にしていただけた感じもあるし、自分のなかの、何の意味もなく殺されて死体を捨て去られることへの恐怖みたいなのにも直面した。
ちょうど今日のレッスンが
「God is the Love in which I forgive」。
わたしを攻撃しているように見える彼らを、
おなじひとつのものとして神の愛のなかに招き入れる。
現場では、「I see,so it's your business」とあきらめて身ぐるみはがされ、「Thank you 」と彼らの肩を叩いて出ていった。
自我の強がりもあったかもしれないけど、そうでない部分からでた行動でもあったと感じる。
祈りシェア会の、「この方がわたしの救い主であることがわかりますように、どうか教えてください」と祈るときのかんじと似ていると感じた。
「え!?この方がわたしの救い主だって!?」という意外性を受け入れるときのこころのうごき。
彼らと私のあいだには分離はなくて、同じくもっている分離という信念を、ともに癒やす機会を与えていただいているという。
なんかこれは自我のなかの解釈かもしれないけど、
この経験をさせてもらったおかげで、なにかひとつ「犯罪的なこと」への抑圧、フタみたいなのがとれて、より自由なエネルギーみたいなものが動き出しているような感覚がある。
「犯罪的なこと」と自分でジャッジしていることですら、神の愛のなかでは違いはないということ。
それをまなばせてもらってるような。
そして住んでいるアパートに帰ってきたとき、
エレベーターでパレスチナから来ているというイエスみたいな雰囲気の人(とそのベトナム人彼女)といっしょになってすこし話した。
彼はすこし日本語が話せて、「ドウモハジメマシテ。ワタシハサリムデス。ヨロシクオネガイシマス。」
とすごく優しい笑顔と瞳で話してくれた。
「オヤスミナサイ〜」
いったい何だったんだ。
そして、「犯罪」罪を犯すこと、が実際にありえる、犯罪が存在しえるとしていたのは他でもない自分でしかなかった。
自分があると信じたものを配役の人たちといっしょに演じながら見てきただけだった。
他でもないわたしが。