合宿ありがとうございました。

合宿ありがとうございました。

■自分が究極の恥だとジャッジして抱えてきた性的な問題の告白について。

ミユさんの秘行をやるなかで、自分のなかで最低最悪とジャッジしている自分のこと、そういうジャッジメントがあるんだということを受け入れられるようになってきていた。

(ミユさんの秘行についてはこちら:

【秘行】まとめページ | ミユ メモリーブログ 3次元生活日記

 

それに加えて、前日にみんなで映画「神の小屋」をみさせてもらったおかげで、イエス聖霊の視点が秘行のなかで自分をみつめる視点ととけあって、「イエスといっしょにみる」ということが初めて実感として感じ始められていた。

さらにその日の何かの話の流れで「自己概念B,自己概念C」の話があって、
「強烈なコンプレックスをかかえている【私】と、そのコンプレックスをもとに攻撃をしかけてくるこの世界」というのもたんに自己概念BとCだな、と受け入れる見方ができた。

そんな様々な流れがあったおかげで、みんなのまえで、自分のなかで恥としてジャッジしていた性的な問題について話させてもらうことができました。

そしてそれを聞いてもらえたおかげで、
その恥にまつわる自我の攻撃を光のもとに晒し続けていくことができるようなったと感じています。

白日のもとに晒したことで
「なんでそんな恥をさらしたんだ!お前はもう終わりだ、恥ずかしい存在め!」
といった自我の攻撃は強まっているように見えるけど、
みないようにしていた自我の攻撃をみざるをえなくなったので、
それをすべて包み込み溶かしてくれる聖霊の視点に頼らざるを得なくなった。

それが大きいと感じる。

日常において、聖霊の視点にたよる、聖霊をつねに受け入れて、聖霊の視点でみさせてもらう、その基準レベルみたいなものを上げざるを得なくなったような感じ。

聖霊の視点なしではつらすぎて生きていけない。

超越し、包み込み、ジャッジメントを溶かしていく強度をもった視線。

隠していた「問題・恥」をおおやけにさらしたことで、この視線を受け入れざるを得なくなったのがありがたい。


■秘行をするときの視点が、イエスの視点と融合するのを感じる。
「他者目線」で自分をくまなく容赦なくジャッジするとき、その視線のさらに奥にイエスの目をみる。
ベトナムで出会ったパレスチナの彼のような、「神の小屋」でみたイエスのような、イエスの瞳。

自分のみている世界の(みえない)中心に、こちらを直視して見通して溶かしてくれるイエスの瞳をみる。


■個人ではない、ぐお〜〜〜〜という、自我の闇の力動。
それに直面し、その上で「何を選ぶか?」という決断の力をしめしてくださったR聖霊に感謝しかありません。R聖霊だけでなく、みんながそれぞれみている映像のなかで同じ力をみせてくれている。ありがとうございます。