今日という日は真理に属しています。
いざ聖霊にできるかぎりのすべてを明け渡そうと思っても、
まったくその準備ができてないことがあきらかになった。
わー。
どうすればいいの??
最近は朝起きてすぐ、今日のワークブックのレッスンを時間をかけてしみこませるようにしてるので、とりあえずその辺をさらにじっくりとやってみた。
すこしずつ文章を区切りながら、目を閉じてしみこませる。
そうしているうち、今日のレッスンのなかの、
「今日という日は真理に属しています」ということば、そして
「真理に誤りをすべて訂正してもらいましょう」というところに、ぐぐぐっときた。
表面的な意識でなぞると、なんか素晴らしいことが書いてあるようにみえるけど、これを実際にあてはめて自分をそのなかにほうりこもうとすると、自然と顔が悲しそうなしかめっ面になる。笑
なんでやねん、と思ったけど、
自我でつくっている世界に自我として生きているつもりのわたしなので、
真理に誤りをすべて訂正してもらうのは苦痛でしかないんだな。
当たり前のことだ。
「今日という日が真理に属している」ということも、ほんとに受け入れようとするとかなりヤバいことになる。
なぜなら今日という日が真理に属しているのなら、自我の居場所は今日という日のなかにはないことになるから。
居場所がない。
でも真理をうけいれるというのは、それくらい世界がひっくりかえることなんだよな・・!というのがすこ〜しずつ受け入れられてきてるようにも感じる。
「今日という日は真理に属している」
「わたしの誤りのすべてを、真理は訂正する」
この2つのアイデアは、深くはいっていくと、自分にとってかなりディープなインパクトを与えるものだった。
ひっくりかえる。
さらに今日のレッスンを読みすすめていくと、
「あなたとともに行く聖なる存在に、ともに進む道すがら、その存在をあなたが自覚していられるようにしてほしい、と頼むことから始めましょう」
「ともに歩んでくれるようにとあなたが頼んでいるその存在とは、あなたの真の自己なので、あなたのいるところにその自己がいないということがあるでしょうか」
ということばが。
この文章にふれたとき、
「今日という日が真理に属していることを完全にわかっている存在」がたしかに自分のなかにいるようなかんじがした。
こんなふうな「真の自己」といえるような存在の存在感を、自分のなかに感じられた(かいまみられた)のははじめてかもしれない。
まだまだよちよち歩きではあるけれど、
こうやってすこしずつあたらしい歩き方をみにつけていきたい。