ひとりでは偶像しかみえない

「偶像があたえてくれると信じているものを、望まないようにする」

と言葉でいうのは簡単だけど、

ほんと自分が「これが世界」だと見て、注目しているあらゆるものが偶像なので、想像以上にきつい。

 

偶像についてはテキスト30章に書いてあるようだったので、

もういちど30章を最初から読み始めている。

 

最初は「決断のためのルール」。

 

すこし前にも見直していたけど、今回あらてめてみると前回よりもさらに言葉の意味が入ってくる感じがする。

 

「自分ひとりでは何も決断しない」

「自分ひとりで(勝手に)質問と答えを設定しないこと」

とあるけど、偶像をみているということ自体、

自分で質問と答えを設定していることなんだと思った。

 

「この偶像がもつ意味はなに?これこれだよ」みたいな。

 

「自分ひとりでは何も決断しない」と決めるということは、

なにひとつ偶像をみない、あらゆる偶像をみることをあきらめるということでもあるのかな。

 

「偶像を求めない」

この決断はなかなかたいへんだ。

でも、

「どんな偶像を手に入れたとしても、それがもたらすのは絶望的なみじめさでしかない」

ということが心底実感できたとき、本当に偶像を望まないという、幸せのための決断ができるのかもしれない。

 

 

奇跡講座テキスト30章セクション3、1-9

「偶像を求める決断をすれば、あなたは損失を求めていることになる。」

偶像は制限された形態であって、神の子は制限のないものだから。

 

奇跡講座テキスト30章セクション3、2-1

「あなたが追求しているのは形態ではない。どんな形態が、父なる神の愛の代替となり得るだろう。」

「無限なるものを限定できるだろうか。あなたは偶像を望んではいない。それをもつことはあなたの意志ではない。それはあなたが求めている贈り物をあなたに授けてはくれない。望むものの形態を自分で決めるとき、あなたはそれが目的としているものについての理解を失う。」

 

偶像は、具体的な形態。無限なるものを限定して、無限なるものと取り替えようとしている。

 

すべてであるものは、無限なので、形態をもたない。

なぜ具体的な形態=偶像をもとめるのか???

 

同30章セクション3、3-3

「自分自身を完成させようとして、自分につけ加えるための特別な人や物を追求するということは、あなたが自分には何らかの形態が欠けていると信じていることを意味しているだけである。

 

そして、それを見つけることで、あなたは自分の好む形態において、完全性を達成するということになる。

これが偶像の目的である。

すなわち、あなたが、偶像の向こうにある【自分は不完全だ】という信念の源をみないようにさせることである。」

 

 

 

なるほど・・!!

 

偶像を求めるということは、

「自分は何かが欠けている不完全なものだ」という信念があるということ、

そしてその源をみないようにしているということを意味してるのか。

 

つまり、神から分離したがゆえに「欠けた存在」となった自分、

そのことをみないようにするために、

「ある具体的な形態=偶像」を手に入れれば自分は【自分が好む形で】完成するはずだ、という、けっして果たされることのない希望でめくらましをかけているということか。

 

同30章セクション3、4-1

「あなたが望んでいるものは偶像などではない。

しかし、偶像が与えてくれるとあなたが思っているものは、まさしくあなたが望んでいるものであり、あなたにはそれを求める権利がある。」

 

そう、完全であろうとするのはわたしの意志であり神の意志でもある。

でも完全さは特定の形態によって達成されるものではない。すでに達成されているもの。

「神は形態を知らない」(同30章セクション3、4-5)。

「どんな偶像に頼めば、神の子がすでにもっているものを神の子に与えられるというのだろうか。完成こそが神の子の機能である。彼がそれを探し求める必要はまったくない。すべての偶像を超えたところに、自分の本性のままであろうとする彼の神聖な意志がある。」(同30章セクション3、4-10)

 

もし神の子に偶像が必要なのだとしたら、

彼は神に創造されたままのものではないということになる。

「神に創造されたものが別のものに変えられた」ということになる。

そんなことはありえないのに。

 

同30章セクション3、10-1

「すべての偶像を超えたところに、神があなたについて抱いている想念がある。

それは、世界の混迷と恐怖や、世界で夢見られている生と死の夢や、無数の形をとって表れる恐れといったものを前にしても、完全に超然としている。

みじんの動揺もなく、神があなたについて抱いている想念は、これまでも常にそうであったように在り続ける。」

 

 

偶像を求めていると、必然的に「敵」や「分離」があることになってしまうのでしょうか?

そうです。

なぜなら「偶像」の存在自体が、分離を前提としたものであり、分離は罪、敵、欠けたものがあり得るという概念をもたらします。

 

この全体像がみえますか?

あなたが偶像を求めているということは、

罪、欠けたもの、敵、これらすべてがある世界を肯定してることを意味します。

 

同30章セクション3、11-8

「偶像はあなたの本性を、神の心からではなくあなた自身の心から、隠し続けることになる」

 

同30章セクション4、1-7

「あなたが攻撃するのは偽りの信念だけであり、けっして真実の想念ではない」

 

わたしが攻撃する「敵」は、偶像と同じ偽りの信念。

 

 

 

わたしが偶像をもとめているとき、

分離、敵、攻撃、欠けた存在が当然の世界を肯定している。

無限の一なるものに、分離、敵、攻撃、欠けた存在という概念をもちこもうとしている。

 

もうこんなのは耐えられない。

 

 

ひとりで決断してる限り、偶像しかみえない。

 

 わたしのすべてを、全細胞を、天と地のすべてを、「ひとりでは決断しない」ことに捧げます。

どうか助けてください。