10月カースティン日本リトリート
分離した「他者」が存在すると信じている限り、不幸しかない、
というような話があります。
生理的にイヤだ、キモい、みたいな反応を感じる人がそばにいたとしても、
その彼もふくめ、すべての「他者」が自分自身であることを受け入れることができますように、
と祈るしか、もうやりようがなくなってきています。
そのように祈りながら、このブログをみている人がどんな人なのか表面上はわかっていませんが、わたし自身であるあなたに呼びかけています。
価値のあるものってなんでしょうか?
お金、自分の身体、自分の身体のまわりにいる「たいせつな」人たち、手に入れたもの、家、ステータス、地位、他者からの評価。
これらに価値があると信じていると、なかなか手放せないですよね。
今日読んだコースのレッスンに、価値のあるもの、価値のないもの(というか無)の見分け方みたいな話がのっていました。
・ほろびゆくものは価値がない、というか実在していない。
・他者から奪えると思っているものは価値がない、というか実在していない。
・ほろびゆくことをカモフラージュする目的のものは価値がない、というか実在していない。
・そこにほんのちょっとでも罪悪感がからんでるとしたら、それは価値がない、というか実在していない。
これら「価値がない、というか実在していない」ものに価値を与え、それを求めることは不幸・悲しみを求めていることなんだと、自分ではわかっていません。
コースでは「あなたはあまりにも望んでいない」「あまりに少ないものしか求めていない」といわれてます。
でもわたしたちの多くは、何が価値あるもので、何が価値がないものなのか、わかっていません。
今、わたしたちの先を歩いてくれていて、本当に価値あるものに価値をみて、「少なすぎるもので満足しない」ことをみせてくれている人たちが、わたしたちにそのあり方をみせてくれる機会を与えてくれようとしています。
この機会に、真の自己、実在するもの、本当に価値のあるものに価値をおくことに参加してみたい、もう価値がないものに価値を見続けるのはやめたい、という方は、いっしょに参加しましょう。
▼10月カースティン日本リトリート招待ページ