祈り

イスラエルのコース教師であるエフラットさんと去年のイビサ島のACIMフェスティバルで知り合ってから、とても透明感のある、この世界の向こう側をみている人というつよい印象をもっていた。

エフラットと会っているとき、彼女がみているのは、自分が自分で自覚している「わたし」ではなくてその向こうを見てくれているような、そんな感覚があった。

 

そのエフラットがニューヨークにいって、香咲さんといっしょに大きな祈りを捧げられるということがfacebookで流れてきて、参加しようと思ってたけど見事にスルーしてしまっていた。

でも朝起きて気づいて、こころには時間も空間も関係ないからと、その祈りにこころをあわせることにした。

はじめてすぐに感じた。

以前、こういう祈りに参加しようとしてたときとはあきらかに違う感覚。

 

なんというか、、

祈りも「真の自己への参加」

なんだと感じられた。


「神への献身」という言葉に抵抗を感じていたのを、『愛のコース』という本のなかでイエス
「それは真の自己への参加ということですよ」と教えてくれていたけど、
今回祈りに参加したときに、祈りもまったく同じことだと感じられた。

 

なので、この祈りに参加することが、なにかこれ以上ないくらい「自然なこと」と感じられるというか。

 

そして、まだまだ自分が除外して、あることにしておきたい、「悪」として祈りのなかから除外しておきたいものがあることもみえてきた。

たとえば政治家とか政府関連のニュースをみたときに裁いている相手とか。

 

そしてさらに、こうして今まで除外してきたものごとにたいしても、「祈る」ことができる、「真の自己への参加」のなかで、なかったことをゆるし、ひとつであることを思い出すことができる、
ということもみえてくる。

ありがとうございます。