キリストのまなざし。分離の概念。
2週間ほどベトナムに滞在しています。
以前来たときに会ってからずっと連絡をとりあっていた女の子がいて、彼女と会っているときにいろいろと出てくるものを経験していた。
彼女にたいする期待や取引の思いと、それにともなう自分を被害者としてとらえようとする思考がわいてくる。
今回最後に会うとき、心底そうした思いの訂正をうけいれたいと思っていた。
それで、会っているあいだじゅう、例の
「聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。
私はあなたをキリストのまなざしで見て、
あなたのなかに私自身の完全な無罪性を見たいのです」
を繰り返していた。
それをあてはめていると、フッと肉体としての彼女への期待から自由になる感覚があって、でもすぐにまた彼女を肉体としてみて自分を被害者にするような思考もわいてくるので、絶えずそのあてはめるのを続けていた。
だんだんと、ちょっとでも自分を被害者に置く攻撃の思いがあるのががまんできないという感じになったとき、「あなたをキリストのまなざしで見たい」からの展開で、
ああ、わたしにはただしくみることなんてできなくて、代わりにキリストにみてもらうしかないんだった。。と思い至った。
自分の力で、自分で、「いいかんじで、ゆるしのかんじで、みる」というのをあきらめて、
かわりにキリストにキリストのまなざしでみてもらう、ということの
体感がはじめてあった気がした。
ああ、こういうふうに自分は横にどいて、かわりに見てもらえばいいってことか。
すごく軽くて、自由になる。
この経験にみちびいてくれた彼女にも
最終的に大きな感謝しかないのだな。。
ありがとうございます。
・・・・ということを書こうとしていたけど、
また今はその感覚がよくわからなくなってきている。
いったりきたり、繰り返し。
今、自分のボタンをおしてくれる存在がすぐ近くに座っている。
すごくいいかんじのカフェに出会えていい気分でいたところに、
その「ボタンを押す存在」がすぐそばに座ってきて、こころを乱されている。
具体的にはびんぼうゆすりをするヤツが本当にだめだ。
存在に落ちつきのないヤツ。それでいて押しと主張だけは強そうなヤツ。
視界にそのびんぼうゆすりが入ってくるだけでこころの平安が乱される。
「しかもこいつ韓国人っぽい顔つきしてんな」という思考もおこってくる。
こうして書いてたら、それにあてつけるかのようにさらにびんぼうゆすりがひどくなる。
キリストにたすけをもとめるしか、不可能だな。。。
たすけをもとめる。
するとこんな思考がわいてきた。
「あなた」という特別性をもった特別な存在をみるのをやめたい。
それに影響される「わたし」という特別性をもった自分を保持しつづけるのもやめたい。
なにかをしている「あなた」という特別性をもった存在を認識している限り、
平和はない。
「聖なる神の子よ・・・」をあてはめるときも、
なにかをしている特別性をもった「あなた」にたいしてこれをいくらあてはめようとしても意味がない。
すると、「わたし」と「あなた」が分離しているという概念そのものがなくなるような一瞬があった。
ありがとうございます。