10月カースティンリトリートで体験したこと
最終日にいただいた、今回のリトリートに参加させていただいた最大のギフトは、「自分のコントロール欲求・ジャッジメントをイエスとともに手放していける実感」だった。
カースティンを中心とした大きな愛の空間のなかでみんなとすごし、イエスにしたがっているラファエルとコラボするなかで、大きな深い闇もあがってきて混乱状態になっていた最終日。
たまらなくなって、カースティンの目の前で吐き出させてもらう機会を与えていただいた。
そして深い愛のまなざしのなかでカースティンにいわれた言葉。
あなたはずっとすべてをコントロールしようとしてきましたね。
そのためにつよく自分にマインドトレーニングを課しながら。
はい、まったくそのとおりです。
コントロール欲求がつよいのはうすうす感じていたけど、
マインドトレーニングが自分ですべてをコントロールするためだった、
というのは大きな気づきでもあった。
今過去のブログを読み返しても、
「マインドトレーニング」に精を出してきたことがよくわかる。
マインドトレーニングは大事だけど、自分の場合はカースティンが教えてくれたように
「自分ですべてをコントロール下に置くため」のマインドトレーニングだった。
すべてをコントロールしようとする力動が強い。
そしてすべてを自分でコントロールするためのマインドトレーニング。
そのようにやってきた。
思えばものごころついたときから、まず「母親をコントロールすること」しかあたまになかったし。
このことを直接、あの慈悲深い愛のまなざしのなかで言ってもらえて、そのとき何が起こったのかはよくわかっていない。
そのときはただ泣けるだけだった。
でもそのあと、カースティンをとおしてあらわれる存在にすがりながら、皆のすばらしいシェアを聞き、立ち止まって聖霊にたずね、それにただ従うというみんなの意思を聞き、最後の瞑想のなかで奇跡がおきた。
カースティンに話させてもらって大泣きすることである程度の解放は感じていたけど、
「やっぱりコントロールしたい欲がどうしてもあるよな。これどうすればいいんだろう・・」という重たいものがまだあるのを感じていた。
それが最後にみんなで瞑想しているとき、イエスが来てくれたイメージがあって・・
イエスは
「コントロールしようとしても、別にいいんだよ」
「でもコントロールしようとするなかで、辛いことや苦しいことがあったら、いっしょにそれを背負わせてね」
と言ってくれたように感じた。
そしていっしょに重荷を背負ってくれるというイエスには、なんの深刻さもない。
ただただいっしょによりそってくれて、本当はあえて苦しむ必要はないのに自分がしたいようにさせてくれて、辛いことがあればいっしょに背負ってくれる。
しかも深刻さがいっさいなく、なんならコミカルに、わたしがこだわっているコントロールやジャッジにつきあってくれる。
そしてそのコミカルさ、軽さが、わたしのコントロールやジャッジの無意味さをはっきりと浮かび上がらせてくれる。
そして、自然とつかんでいたものを手放させるようになる。手放すのを強いるのではなく。
なんてやさしい導きなんだろう。