日本
イエス、いっしょに書いてください。
毎日日本で生活しているなかで、息苦しさが感じられてきて、
「ああ!はやく台湾に戻りたい!
あの(気質的に)カラッとした中で生活したい!」
という欲求が高まってきて、
もしかして撮影旅行に行くことになるなら当分台湾に戻れないから、
今のうちに2週間だけでももどって充電してこようか、という考えが浮かんできて、
あとワンクリックで航空券購入というところまでいった。
そこでさすがにようやく習慣になりつつある「きいてみる」ということをやってみたところ、、
待て、今は待て、といわれている気がした。
はい。
ネットの画面を閉じる。
で、それと同時に、最近日常のなかで感じているちょっとした怒りがわいてくる場面とか、
全体的なイラつきとかを見てみる。
そしてYこさんのブログ記事をよんだあたりで、すごく気づけてきたことがあった。
自分への嫌悪感や深い怒り、憎しみといった感情を、
この日本全体にたいしてセットにして抱いている。
そう、考えてみればものごころついたときから「まわりは敵」ということにしてきたのだから、
そうなって当然なのだけど、なぜかその深い怒りや絶望、憎しみ、ジャッジ、自己嫌悪、他者憎悪といったものを自覚してこなかった。
そして、「コントロール」することによって、そうした深い怒りや絶望、憎しみをみないですむような「状況」にしようとしてきたんだ。
このことにYこさんのブログのおかげでリアルにわからせてもらえた感覚があった。
カースティンに指摘されて自分でもそうだとおもっていた「コントロールの強さ」には、
こういう背景があったのか。。。
あたまの理解ではなく、ふかいとこで腑に落ちるような感覚があった。
そしてこれもYこさんのブログにあったように、
それを一人でみつめるのではなく、Jといっしょにみつめる。
幸いなことに、カースティンのリトリート以来、以前よりも格段にJの存在感はより大きく感じられるようになっている気がする。
ありがたいことに。
Jは言ってくれる。
深い怒りや絶望、憎しみ、ジャッジ、自己憎悪・・・そしてそれを見ないようにするための強いコントロール・・・
「それがあなたではないからね」
ありがたい。
そう言ってくれるJといっしょに、ただ浮上させていっしょにみつめていけばいい。
そして日本の社会や人々にたいして感じていた嫌悪感はすべて、
自分のなかにある深い怒りや絶望感、憎悪の投影で、
しかも今回、そのかなり大きな部分をこの日本という幻想に投影している気がする。
原爆や放射能汚染、絶望や自殺やメディアのコントロールや過労死などなどすべて含めて。
自分が生まれて、ものごころついて、判断して、いろいろ考えたり経験して育って生活してきた場所のようにみえるこの日本に、かなり深い闇を投影している。
そしてその深すぎる闇の叫びを聞かなくていいように、
あそこまで強いコントロール欲求をもってすべてをコントロールして
闇の叫びを聞かなくてもいい「状況」をつくりだそうとしてきたんだったんだ。
台湾に今戻るのは、このすべてにフタをしたままということになる。
日本の社会・人々のすべてや、経済第一主義的な考え方に投影された、
深い怒りや悲しみ、絶望、憎悪を癒やすときが来ている。
イエスといっしょに、すべてをみて、癒やすときがきている。
おしえていただいてありがとうございます。
世界は薄暗く険悪なものとなり、あなたには救済が運んでくる幸福な閃光を知覚して自分の道を明るく照らすこともできなくなる。
そうしてあなたは自分自身を、光を奪われて闇の中に見捨てられた者、また、不毛な世界に何の目的もなく不当に置き去りにされ者と見ることになる。
聖霊が不正義を内なる光のもとへと運び、そこですべての不公平が解決され、正義と愛に置き換えられているからこそ、この世界は公平なのである。
どこであれ不正義を知覚したなら、ただ次のように言いなさい。
これによって、私は父と子の臨在を否定することになる。
彼らの臨在が放つ光が不正義を消し去るのだから、私は不正義を見るよりも、彼らを知ることを望む。
(「奇跡講座 上巻」p694 26章セクション10,6,3 中央アート出版)