instrument for peace
デイビッドのリビングミラクルズコミュニティで中心に置かれているという「instrument for peace」というツールを使うと、
「(神から離れたという狂ったアイデアから生まれた)不足の信念と、そこから必然的に生まれる欲望」から具体的なさまざなま事象・状況をつくっていることが体感できてくると感じています。
levelofmindjp.pdf - Google ドライブ
instrument-for-peace.txt.pdf - Google ドライブ
奇跡講座で学べる形而上学が、実際にこの自分が生きている世界の具体的な事象のなかで実感・体感できるかんじといえるかもしれません。
そして、この世界の日常のなかで感じる、ちょっとした「チクッ」「イラッ」が、まったく「ちょっとした」ものではないこと、またこの世界の知覚をひっくり返していくたいせつなとっかかり・材料でもあることが感じられてきます。
以下、さっきやってみた例。
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1.
(知覚)
【A:「こころの平安のための道具」と書かれた紙に何か書いたりしているのをカフェなどで人にみられる】
ことについて考えるとき、
(感情)
【B:恥、罪悪感】
という感情を感じる。
(思考)
なぜなら
【C1:こころの平安について取り組まざるを得ない弱い自分、その弱さをみてバカにする他人】
が責められるべきであり、
未来に
【C2:人にバカにされること】
が起こるのを恐れているから。
2.
(信念)
これらのことは、
【D:私は弱くて無価値な存在だ】
ということについて、私が正しいということを証明している。
私は今の感じを好まない。
なので、今私が知覚していることが本当のことではないという可能性 を考える準備ができている。
癒やしのプロセスの一部として、私は(自分がそれに与えた意味で ある)この嫌なきもちを越えて見ること、そしてこころの内側を見ることを意志する。
3.
私は以下の事象のなかで私が演じている役割を、罪悪感なしに見ることができるということを学びたい。
【A:「こころの平安のための道具」と書かれた紙に何か書いたりしているのをカフェなどで人にみられる】ことについて考えるとき、
【B:恥、罪悪感】という感情を感じる。
なぜなら【C1:こころの平安について取り組まざるを得ない弱い自分、その弱さをみてバカにする他人】が責められるべきであり、
未来に【C2:人にバカにされること】が起こるのを恐れているから。
4.
私は以下の知覚について自分が正しくありたいという望みを手放す。
【A:「こころの平安のための道具」と書かれた紙に何か書いたりしているのをカフェなどで人にみられる】ことについて考えるとき、
【B:恥、罪悪感】という感情を感じる。
なぜなら【C1:こころの平安について取り組まざるを得ない弱い自分、その弱さをみてバカにする他人】が責められるべきであり、
未来に【C2:人にバカにされること】が起こるのを恐れているから。
これらのことは、【D:私は弱くて無価値な存在だ】ということについて、私が正しいということを証明している。
私はそのかわりに幸せであることを望む。
自我のゆがんだ考え方/見方をとおして、私は自分の嫌なきもちの原因とその解決法が、こころの外側にあると知覚している。
この投影は非常にリアルに見える。その目的は、こころが内側を見るのをさまたげることだ。
5.
もし私の嫌なきもちの原因と解決がこころの外側にあるのだとしたら、私は自分のこころの状態を変えることについて実に無力ということになる。
私の投影(内側に見たくないものを外側に見ること)が、私が無力さを感じる理由であり、
【C1:こころの平安について取り組まざるを得ない弱い自分、その弱さをみてバカにする他人】や、未来に【C2:人にバカにされること】が起こるのを恐れていることが、私の嫌なきもちの原因のように見える理由である。
6.
【A:「こころの平安のための道具」と書かれた紙に何か書いたりしているのをカフェなどで人にみられる】ことについて考えるとき、
【B:恥、罪悪感】という感情を感じる。
なぜなら【C1:こころの平安について取り組まざるを得ない弱い自分、その弱さをみてバカにする他人】が責められるべきであり、
未来に【C2:人にバカにされること】が起こるのを恐れているから。
これらすべては、
【D:私は弱くて無価値な存在だ】
という私の不足の信念の結果としてあらわれたものだ。
7.
私が誰かや何かにたいして嫌なきもちになるとき、それは彼ら(それら)が私自身が自分のな
かに見ることを否定した信念を映し返しているときだけだ。
私がこの世界の何かを責めたり恐れたりするとき、それは嫌なきもちとその解決法をあるがままに (こころの中の決断として)見ることをさまたげるためであり、そのかわりに自分が望む自己概念 や他者・世界のイメージをもちつづけるためである。
このこころのトリックは罪悪感や恐れをどこかに移し替えるように見えるが、実際には嫌なきもちを維持しつづけることになる。
自己概念や他者・世界のイメージを責めたり恐れたりすることは、自分が肉体に制限された、肉体の世界の住人であり、本当の私自身であるスピリチュアルな抽象性を否定することを必要とする。
嫌なきもちを手放すための最初のステップとして、自分の外側にあると思っていたものを、自分のこころのなかに見ることを、私はのぞむ。
【A:「こころの平安のための道具」と書かれた紙に何か書いたりしているのをカフェなどで人にみられる】ことについて考えると嫌なきもちになるということは、
【C1:こころの平安について取り組まざるを得ない弱い自分、その弱さをみてバカにする他人】や、未来に【C2:人にバカにされること】が、
私の罪悪感・恐れの原因であることにしようとする、ひとつの企てにすぎない。
3.
嫌なきもちになるということは、
【A:「こころの平安のための道具」と書かれた紙に何か書いたりしているのをカフェなどで人にみられる】ことが、私がもとめていることに反するとき、価値があってもっともなことのようにみえる。
(強い欲望・もとめ)
私がもとめ、期待している(いた)のは、
【E:一人でこの世界でうまくやっていけているように人に見られること】だ。
私はまだ
【D:私は弱くて無価値な存在だ】という信念を信じているので、
私が幸せになり、完全になり、平安になるためには
【E:一人でこの世界でうまくやっていけているように人に見られること】が必要だと考えている。
この不足の信念と、その結果としてあらわれる期待・欲望は、
私にとってこころの平安よりも重要なものだろうか?
9.
この世界のすべてのものごとは、いっしょになって、私にとってのよきことのためにはたらいて くれる。
私が私の嫌なきもちの原因だと考えていたものは、まったくそうではなかった。
【A:「こころの平安のための道具」と書かれた紙に何か書いたりしているのをカフェなどで人にみられる】に嫌なきもちになるという選択は、その真の原因(=今現在こころのなかでくだされている決断である、分離と不足の信念)を見ないという選択だ。
それは原因が過去/未来にあり、現在はその影響下にあると見ようとする企てだ。
10. 今この瞬間、私が何にもましてもとめているのは、こころの平安だ。
なので、私は自分にとってのただひとつの目的であるこころの平安と再びつながるために、
【D:私は弱くて無価値な存在だ】という信念に疑問をていし、
自発的に【E:一人でこの世界でうまくやっていけているように人に見られたい】という欲望を手放す。
11. こころの平安とは、今この瞬間、感謝のなかでくだすことができる決断だ。
重大な罪悪感や恐れがありえるようにみえたのは、私が過去や未来に原因があるという信念にすがりつくと決めたからだった。
私は自分が過去/未来に与えた意味を手放し、解放されていて完全に無垢である「今」にたいして こころをひらく。
12. 私は、今まで自分の外にあると思ってきた自分の嫌なきもちの原因を認識できたことに感謝する。
実はそれは、こころのなかの問われていない信念と決断だった。私は私自身のこころの平安のために、新しい決断をくだした。
【最後のプロセス】
「問われていない信念と欲望」をみつけたら、それを自分の力でどうにかすることはできない。なぜなら「自分」は自分でつくった現実を現実だと信じることしかできないから。
自分でどうにかしようとして、そこに長くとどまりつづける必要はない。
最後には意志をささげ、祈りをささげるだけでいい。
「私はこのことについて、自分が間違っていることを望む」
「どうか私が間違っているということをみせてください」
この意志と祈りをささげる。これがスピリットの強力な力にたいして自分をひらくことになる。
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やり方は自由だと思いますが、自分は紙にプリントアウトしたものに書き込みながらやっています。
何度もでてくるA〜Eの欄に同じことを書き込むのは意味がないように最初は思っていましたが、何度も実際に書き込むなかで、より言葉と感じている内容が一致してくるような感覚があったので、何度も書くようにしています。
なによりも「自分自身を嫌なきもちのなかに置き去りにしない」という慈しみをもってやっていきたいと感じています。
あと、闇のような信念をみつけたら、自分でそれをなんとかしようとしてそこに長くとどまる必要はなくて、
「私は間違っていることを望む。どうか私が間違っていることを見せてください」
という祈り、意志をささげるだけでいい、というのもありがたいです。
この世界をでっちあげて信じてしまった私にとっては、本当のこと・すべてを知っていて覚えている存在のたすけなしには「出口なし」なので、そのような存在とのコネクションを保ち続けるためのたすけにもなると感じます。