自分を道具として世界に与える

「自分自身を道具として世界に与えること」に実際に開こうとしたとき、今現在できるかぎりでの自分なりの原則というかあり方みたいなものをクリアにしておく必要を感じた。

そのときにちょうど完璧なタイミングで与えられていた「質問」項目への答えが、とてもそのたすけになってくれた。

 


✱私にとってこの道はなんなのか?

自分とは、人とは、世界とは、愛とは何なのか?
まったくわからなくなってしまったこれらのことを思い出すための道。

 


✱関係性とは?

自分たちが真実ではない何をでっちあげてしまっているのか?をお互いに見せ合うことができる。

そしてそれを認識することで、癒やしの機会にすることができる。

 


✱個人的な思考をもたないこと、透明であることがたいせつなわけは?

何かを個人の内側に隠し持つということは、まず分離がありえるということを肯定している。

そして隠すということには罪悪感が付随しているので、罪を肯定している。

つまり、何かを個人の内側に隠し持つことによって、分離と罪と、二重に肯定していることになる。

 


✱なぜこの旅路を歩むことで多くの闇や無価値感などがあがってくるのか?

神から離れたと信じた瞬間に、多くの闇や無価値感を自分のなかにでっちあげてしまったらしい。

それが耐えられなさすぎて投影して「外側」にあることにしようとして世界をつくりあげたけど、もとをたどっていく道のなかでは、まずそれらをふたたび自分の内側に見るしかなくなる。

そしてふたたび認識しはじめた闇や無価値感を、真実を知っている・覚えている存在のところへもっていくことで、それがnothingだったことを思い出させてもらえる。

 


✱出口とは?解決策とは?

自分では何一つわからないので、すべてを知っている存在に導いてもらうこと。

 


✱導きとは?解決策との関係は?

救いに必要不可欠。すべてを知っている・覚えている存在の声。

「わたし」が、何も知らない・覚えていない以上、解決のために導きは必要不可欠。

 


✱「be done through」(自分をとおして使っていただく)とはどういうことか?

自分ででっちあげた「自分の」あやまった考えをすべて脇において、
すべてを知っている・おぼえている存在によって
真実のために使われること。

 


✱なぜ信頼はたいせつなのか?何を信頼しているのか?

「自分が知っていると信じていること」には真実がないから。
自分ひとりでは必ず間違うから。
すべてを知っている・覚えている存在のことを信頼してみるしか道がない。

 


✱他の何よりも何をのぞむか?

真実にたいする明晰さ

 

 

「私の兄弟たちが、ひとつの声だけを聞くという私の決断を共有しないとき、私は残念に思う。それが彼らを教師としても学ぶ者としても弱めるからである。」T6.1.8.1 (『奇跡講座上巻 』中央アート出版 P108)

「弟子とは従う者たちのことであり、もし彼らが手本とする者が、あらゆる意味で彼らから苦痛を取り去ることを選んだのに、その彼に従わないとすれば、彼らは賢明ではない。」T6.8.1.7(『奇跡講座上巻』 中央アート出版 P108)


「あなたがひとつの声だけを聞くとき、あなたは決して犠牲を払うように求められはしない。それどころか、他人の中の聖霊から聞くことができることにより、あなたは彼らの体験から学ぶことができ、彼らの体験をあなた自身が直接経験することはなくても、それらから益することができる。その理由は、聖霊はひとつであり、耳を傾ける者は誰でも、必ず聖霊の道をすべての者に実証するように導かれるからである。」T8.1.10.4-6(『奇跡講座上巻』 中央アート出版 P108)


先輩の兄弟姉妹たちが「ひとつの声だけを聞くこと」を、本のなかの絵空事ではなく実際に「現実」の生きた人間としてみせてくださっているということを、ありがたく受け取っていきたい。