形而上学に逃げない
坂爪さんやミユさんに惹かれるのは、
最近の自分の理解の文脈でいうと、
彼らはいってみればまったく「形而上学に逃げていな」くて、
具体的な人間を相手にしたガチの経験のみを題材に、
自分のこころに正直に耳を傾けるなかで、
自分のなかからきこえてくる声を言葉にしてるからだ、
と思い当たった。
言葉が研磨されているように感じる。
そして自分の書いた文章もふくめ、あたまで形而上学を語っている言葉に魂をゆさぶられることはほとんどないような気がする。
コースを学び始めて、
最初はどうしても形而上学に夢中になって、
形而上学を自分の武器として振りかざすことにもなっていた(いる)と思う。
でも最近、おかげ様でガチの具体的な状況や人間関係のなかで実践するということを
垣間見せてもらえるようになって、
「形而上学に逃げないこと」
「ガチの具体的な関係のなかでこそ、真のまなびがあるということ」
にたいして、すこしずつ開かれつつあると感じています。
だから、米がなくなって餓死しそうになっても一旦丹田に力をグッ!と込めて『待つ』ことが必要になる。待つと与えられるし、待つことができずに自分の力でそれを得ようとしてしまうと、他力が消える。他力が入り込む余地がなくなるのだ。
自分でやろうとすると、他力が入り込む余地がなくなる。
昔、いずみという名前の女性と付き合っていた。結果的にフラれたのだが、彼女は素晴らしい女性だった。なにより『泉』という名前が良い。私は、誰もが心の中に泉を蓄えていると考える。泉の水は『あふれだす』ものだ。決してボロ雑巾のように絞り出すものではない。
義務感や責任感や罪悪感を動機に自分を半ば強制的に駆り立てるとき、どうしても『ボロ雑巾を絞り出す』的な要素を帯びる。しかし、なにかを「やらなきゃ」ではなく「やりたい!」という前のめりな感情で動き出すとき、そのひとの泉はあふれている。
わたしは、この『あふれだしている』という状態がとても好きで、昔付き合っていたいずみちゃんは頻繁になにかがあふれだしていたものだから、私は、いい感じにあふれだしている人間を『あふれちゃん』と呼ぶことに決めた。そして、これが『最高の状態である』と設定することに決めた。
こうでなくちゃいけないとか、なにかをしなくちゃならないとか、そんな枠組みを前提に生み出されるものに私は自由を感じない。
私は、人類全体の中に眠る『あふれちゃん』の存在を信じる。意味も価値も大義名分もなくていい。ただ、ああ、あなたはこれがやりたかったんだねと真っ直ぐに受け止められるもの、そのひとの熱量がシンプルにストレートに込められているものに対して、私は無垢なよろこびを覚える。
あふれちゃんを殺すな。これが私の生涯のモットーである。私は私の中に眠るあふれちゃんの声に従って生きていきたいと思うし、同様に、人類全体の中に眠るあふれちゃんと同じ時間を過ごしながら、遊びながら生きていきたいと思う。
人類全体の中に眠るあふれちゃん。