What do you want me to do? Please show me,show me,show me...........

仕事についてクリアになりたくてinstrument for peaceやってて、途中で長野のニュースに逃げまくっていたときにラファエルが電話をしてくれた。これはたしかにイエス聖霊の導きだ。

ラファエルが過去の自分の仕事についてもいろいろとわかちあってくれたなかででてきた「Done」という言葉。その言葉をきいたとき、わたしの仕事のある部分はたしかに「Done」だと感じた。
そして本当に私に何をやってほしいとイエス聖霊は言っているのかについて、本気でたずねはじめるときが今なのだといわれている気がした。


自分がやろうとしている、やるべきと思っていることをやめて、ガイダンスをたずね、従う。

このことについては、どうしても損失の感覚がぬぐえなかった。

 

でも、それはけっしてまったく損失ではない(たとえば好きな女性との関係をあきらめないといけないとか)ということを感じさせてくれたのが、上海浦東空港での感覚だった。

あのとき、のりこさんと話しながら、イエスと常に物理的にいっしょにいるとしたらどんな感じだろう?という想像をしていた。
そのときに感じたのは、つねにつねに、最高最大の自分(「自分」という感覚をも越えたもの)を見てくれているので、自分が自分と思っている自分にたいして「こんなもんじゃねえだろ」と言い続けてくれるような感じ。ウソがバレ続ける感じ。
その最大最高の自分にたいして開き続けることになるので、好きな女性との関係にしても(かたちがどうあれ)いいようになるしかありえない。
エスと常にともにあって従うことで、何かが失われるなんてありえないんだということを、体感させてもらえた感じがあった。

ガイダンスに完全に従うあり方というのは、非常にすばらしい力とともにあるすばらしい存在の仕方になるということなんだ、というのは新鮮な驚きだった。
みじめな奴隷になるように感じていた部分があったので・・・
でもそれは今の自分がもっている信念の投影にすぎなくて、実際にはそれとは真反対らしい。

「自分」に従って生きてるとき、自分で自分をみじめでみすぼらしい存在ということにする数々の信念をでっちあげて、それでがんじがらめになった「自分」を自分だと信じて生きている。
ガイダンスに完全に従って生きるということは、それをやめるということなんだな。


あと、コンフォートゾーンから出てガイダンスにしたがって何かをやっているときは、
かならず「uplifting 」な感覚があるという話。

それがまったくないなら、それはガイダンスではない。
それを求め続ければいいいのであれば、めっちゃ素晴らしいことなんじゃないか?