インタビュー

インタビューの質問は事前に与えられ、こたえていた質問だったけど、
それをそのとおりに答える感じではなくて、
その場のリアルタイムで感じられるこたえを探りながらこたえていった。

 

2つめの関係性についての質問のところでは、
とくに今朝からの父との関係を思い浮かべながら話していた。

 

そこで何かを感じ取ったのか、
ラファエルがいったん録音を中止して、
「今何を感じているか話して」といってくれた。
(日本語での回答を録音してたけど、ここからは録音しないから英語で話して、と。)

 

そこで以下のようなことを話した。

 

今までいろいろあったけど、父との関係を改善し、よい関係にすることについて、
自分はこれまでよくやってきたと思っていた。
でも今朝、これは自分の知覚にとってはいつものことなのだけど、
父が具体的なもっともらしい注意や意見を述べながら(雪道は危険だからほんとうに運転気をつけろとか、連絡先がお前の携帯しかないから他の人のも教えろとか)、
その本心は「なんでオレを一人にして行ってしまうんだ!?」という不平不満の声、さびしいという叫びとして聞こえてくる、ということがまた起こっていた。

 

そしてそれを知覚するとき、自分のなかではいつも激しい怒りが沸き起こって、心を閉じたくなってしまって、今朝もそういう感じでの別れになってしまっていた。

 

そのあと、それについてinstrument for peaceもやりながら気がついたのは、
自分がこの事象についてひどく罪悪感を感じていること、
自分のなかにも、父のなかにも罪をみていて、
自分も父もともに責められるべきものとしてみているということだった。

 

そしてそれに気がついたとき、なにかホッとしたような、解放されたような感覚を感じた。

 

なんだ、オレは罪深さを信じて、それを自分にも相手にも投影していた、ただそれだけのことだったのか・・・というのと、それをやっていて何も問題がない、完全にゆるされていて何も問題ではないことを知っている部分がたしかにある、という感覚だった。

 

この何も問題がないという感覚は同時に、
自分と父の間にあると思っていた壁・バリアみたいなものも、なぜかわからないけど取り去ってくれたように感じた。

 

何か、これまでは自分がただしい人間になり、ただしいふるまいをすることで(プライベートな思考をもたないとか、お互いの内を晒すといったコース的な実践をふくめ)、父との関係をよくしてきたし、よくしていくべきものなんだ、というふうに感じていたけど、まったく「よく実践できている(ただしい)人間」になる必要はなくて、
罪を信じ、罪悪感を感じ、それを自分にも相手にも投影して苦しんでいる、その「人間」はそのままでまったく問題がなく、そのような人間のままでも完全に愛されているのがわかったような感じ。

 

その人間が変化して「よりよい幸せな実践をする人間」になっていく必要があるのではない。
そんなことではぜんぜんない。

 

そうではなくて、どんなみじめな人間の営みをやっているように見えても、
まったく問題がないんだ、大丈夫なんだと知っている部分があること、
それに気がついていればいいんだとわからせてもらった感じ。

 

罪や罪悪感を自分にも父にも投影して苦しんでいるように見えるその全体劇場をどうにか変化させて、コースを実践して幸せになったオレと、自分の内面をみつめるようになって幸せになった父、みたいなストーリーにしていく必要はなかったんだ、という気づき。

 

その「自分も父もみじめなまま(のように見えても)まったく問題はないんだ」という気づきのなかで、自分と父とのあいだに自分で築いていたバリアが取り払われたような感覚があった。

 

 


・・・・と、長くなってしまったが、こういうことをラファエルに話した。話した言葉はもっとシンプルだけど。

この話した内容は最初から見えていたわけではなくて、話しながらどんどん気づきが深まっていって、それについてまた話して、という流れだった。

このことについて話させてくれたことがとてもありがたかった。

 

あと、「父との間に築いていたバリアが取り払われた感じがした」と言ったとき、
ラファエルがそれはとても象徴的だね(父=神とのあいだに築いていたバリアが取り払われたという意味で)と言って、そのコメントが自分にとってすごくインパクトが大きかった。

 

ああ、そういうことか、と。
こうして神と和解していくのか、と。

 

自分という人間が変化して何かよりよいもの(たとえば神の愛を受け入れることのできる人間とか)になるために実践するのではない。
神の愛はそんなことして手に入れる必要があるものではないんだよ、ということを知るために実践してるのか。

(どんどんバカな自分を受け入れていく道なのかも。)

 

こんなに罪を信じて罪悪を投影しまくっている人間がいるとしても、愛はなにも問題視してないんだよ、ということをただ知ればいいだけのように感じた。

 


ほんの短い時間、インタビュー外でこのような話と、話をさせてもらうなかでの気づきがあって、その後また再度最初の質問のこたえからやりなおして、ということになった。

 

 

自分のなかから出てくる答えは、最初のとはまったく変わったものになった。

 

 

 

✱私にとって、この目覚めの道とはなに?
父との関係性のなかで象徴的に見せてもらえたように、
自分がもっているあらゆる関係性(具体的な人間関係や、より抽象的な神ようなものとの関係も含め)のなかに自分で築いてきた壁やバリアが取り払われていく道。


✱そのために関係性はどのように使われるか?
(さっき、最初聞かれたときは「自分が何を決断しているかをみせてくれるもので、決断をしなおす機会を与えてくれるもの」と答えていた。
でもこの答えには「オレが目覚めるための道具として与えられているもの」という分離の思考がおおいに付着していたことに気づいた。)

新たにでてきたこたえは、

「自分にとっては、関係性が道そのもののように感じられる。」


✱個人的な思考をもたないこと、透明であることがたいせつなわけは?

この道が、自分があらゆる関係性のなかに築いた壁・バリアが取り払われていく道なのであれば、個人的な思考をもたないこと、透明であることがなければ道をすすんでいくことはできないから。

 

✱なぜこの旅路を歩むとき、多くの闇や無価値感などがあがってくるのか?

なぜか・・?というのは今の私にはわからない。
コースの形而上学をまなんで、こうなんだよ、というのはあるけど、
正直、今の実感として、なぜなのかはわからない。

でもなんでかわからないけど、気がついたら自分や相手のなかに罪悪や攻撃という闇のようなものを感じている・・・(父との関係をおもいながら)

そして今感じるのは、そうした罪や罪悪や闇のような思考があったとしても、まったく問題がないと知っている部分がたしかにあるということ。

・・・・なのでもしかすると、罪や罪悪があるように見えても実はそれはまったく問題ではなかったんだよ、ということが明らかになるために、この道を歩むにつれて闇が浮上してくるのかもしれない、のだと思います。


✱出口とは何?解決策とは?
自分があらゆる関係性のなかに抱え持っている(と信じている)闇・罪・罪悪が、完全に問題ではなかったんだよ、とゆるされること。
そうすることで、自分があらゆる関係性のなかに築いてきた壁・バリアが取り払われること。


✱ガイダンスとは?
ガイダンスとは何なのか、今の私にはまだよくわからない。
でも、感じられるのは・・・光だということ。

自分ではまったくどうしていいかわからない、真っ暗闇のなかで、
光のように感じられる。


✱ガイダンスと解決策との関係は?
自分では本当にわからないので、本当に光に、ガイダンスにしたがうしか出口はない。
そして自分はこの具体的な物事や具体的な人間関係の世界しか知らないと信じているので、
ガイダンスも具体的なものも含んだものである必要がある。

 

✱「be done through」スピリットに使っていただくとは?
この道が、あらゆる関係性のなかに自分で築いた壁・バリアが取り払われていく道なのだとしたら、そのゴール・目的みたいなものは、分離のない、わたしもとけこんだ完全なるひとつのもの、ということになる。
be done throughとは、その真の自己であるひとつのもののために、今のこの分離を信じている私を役立ててもらう、使ってもらうということ。


✱なぜ信頼が大切なのか?
自分が知っていると思っていること、わかっていると思っていることのなかやその延長線上にはまったく答えも出口もない。
なので自分が知っていること、わかっている以外の何かを信頼するしか道はないから。


✱何を信頼しようとしているのか?
まだ、何を信頼しようとしているのかはっきりとはわかっていません。
ですが、ガイダンスをたずね、うけとり、従うなかで、これまで知っていたものとはちがう、何かより大きなものを垣間見ることがあります。
そういう経験を繰り返す中で、だんだんと「何を信頼しようとしているのか」について、もっとはっきりわかってくるような気がしています。


✱他の何よりも何を望むか?
分離感がなくなること。。。
・・・いや、この答えは「〇〇じゃないこと」という言い方なので、正確ではないですね。

・・・分離感がなくなった、その先にある何か。

 

 

こんな感じでインタビューは終わりました。
ひとつのインタビューのなかで、またラファエルが途中で止めて質問とは関係ないことを話させてくれたという恩寵のおかげもあって、非常に大きな気づきを与えられました。
神さまイエスさま、ありがとうございます。

 

 

 

・・・・・そういえば、今回気づかせていただいたことは、この前純Kさんがブログで紹介してくださっていてとても心に響いていた、デイビッドの本の内容にとても関わりの深いものだったと感じています。

 

神の神聖な心を知っている、自立した人間である振りをするのはやめてください。

神の心と身体には合流点はないので、それらを調和させる場所はありません。

あなたは心を持った人間ではないのです。

あなたは完全に純粋な神の心です。

真の自立とは、自主性としての自立ではなくて、完全に神に頼ることです。

あなたが思っている自分自身に対する考えをすべてホーリースピリットへ明け渡してください。

そして神にゆるしを教えてもらってください。

そうすれば、神の神聖な心を思い出すでしょう。

 

 「神の神聖な心を知っている、自立した人間である」必要はない・・・。

純Kさん、ありがとうございます。

 

 

あと、最近とくに惹かれていたミユさんの話・・・自分を客観視し続けた結果、どんなみじめなように見えてもそんな自分へのとてつもない慈悲の思いがあふれてきて、愛しくてたまらなくなっていったという話にもつながっていると感じて、うれしいなと感じています。