スペースを与えること・instrument for peace・お前に責任はない

Aちゃんに話した「スペースを与える」ということについて。

 

どうしようもないくらい感情や執着や知覚に同一化してしまってるとき、

それらがないフリをしようとしたり、

押しやろうとしたりしたり、

逆に外側で何らかの解決を得ようとしてもうまくいかない。

 

同一化して憤怒にわなないてる部分、逆にそれを押し隠そうとする部分、いろんな部分があって、なんとかそれらの葛藤・苦しみから逃れたい、どうにかしたいともがいてるとき・・・

 

そこでぐっとふんばって、

ミユさんのブログで教えてもらったように、

「どうせ行くとこないんだろ・・・・

ここで好きなだけゆっくりしていけよ。。」

と、その部分に「スペースだけ」を与え、自分のなかにあることをゆるす。

 

そうすると、「スペースを与える側」になった私とその部分との同一化が解けて、

「楽に息づいている自分」が意識に上がってくる。

 

もし愛しか実在しないのであれば、そうやって受け入れられた憤怒にわななく部分や正しくあろうとする部分は、必然的に愛のなかに消えていくんじゃないか・・?

 

逆に受け入れずに押しやろうとしたり戦ったりすることで、自分の創造力でそれらをリアルにし続けてるんじゃないか・・?

 

そういう話だった。

 

 

この「スペースを与える」ということって、instrument for peace にあてはめると、下のような位置づけで表されると思った。

 

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感情・知覚の部分は「結果」にすぎないので、

ここをどうこうしたり、

ここで戦ってもまるで意味がない。

 

だから、この部分にたいしてできることは

「スペースをつくってあげて、自分のなかにあることをゆるす」ことだけ。

 

その部分(ひどい知覚・感情など)は、自らの欲望・信念から思考をとおって必然的に生まれたものなので、言い方はおかしいかもしれないけど、「その部分には何の責任もない」。

その部分は「お前は正しくないから消えてなくなれ!」と責められるようなことは何もしてない。

自らの中心にある欲望・信念の結果としてあらわされたものにすぎないのだから。

だから本当に、ただ受け入れるしかないんだよね。

 

 

そして本当に癒してほしい、癒やしたいのは、

元をたどっていった中心の欲望・信念のところ。

 

そこまで、instrument for peace を使ったりして戻っていく必要がある。

しっかりステップを踏んで戻っていって、そこで

「わたしにはどうしていいかわかりません」

「私が間違っていることを望みます。どうかその証拠を見せてください」

という本心からの意志と祈りをささげる。

 

こういう感じなのかな、と思います。

 

 

・・・・と、今ここまで書いてみて、これってもしかして「Healing is not in the future」でフランシスが言っていた、

「間違いについて、あなたには何の責任もありません。

でもあなたにはそれについての訂正を受け入れる責任があります」

という話と同じ?似てる?んじゃないかと思った。

 

 

間違った知覚について、あなたには責任はない。

というかそのレベルでは誰一人責任のとりようがない。笑

 

唯一の訂正可能な場所である、中心の信念・欲望のところで、訂正を受け入れる責任はある。

 

 

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自分でinstrument for peace をやるときに頻繁に題材になるのが

同じ仕事を同じコミュニティで学んできて、今めっちゃうまくいってるように見えて人間関係もプライベートも充実していて順調に成長しながら幸せに世界を広げつづけてるように見える人たちへの、嫉妬や怒りをともなった感情だ。

 

今回この記事を書きながら気づいたことを当てはめてみると、

「〇〇さんにたいしてこういう苦しい感情を感じてる」という部分を無意識に責めてたんだな、、でもまったくそれはお門違いのことをしてたんだな、、

この部分は自分のもともとの中心の欲望・信念の結果として必然的にかたちになったものにすぎないのだから、彼(この部分)には何の責任もなかったんだな、、、

あんなに消えろ消えろ言ってゴメンね・・・・

 

と、なんだか優しい気持ちになってしまえるのが可笑しい。

 

そして本当に癒やしてほしいのは、中心のとこなんだ。

 

中心のとこで、私が間違ってることを望みます。

 

 ありがとうございます。