こころを開きたい
台湾に来てから、
死を予感した体験にはじまり、
税金のこと、Sさんのこと、台湾で日本人に遭遇すること、性的な憧れ・執着のこと・・・と、
大きなゆるしのテーマ、instrument for peace の題材として扱いたいことが立て続けに起こっている。
税金については、去年支払った額より高くなるのは覚悟していたのでそれなりのお金を用意していった。
が、台湾での外国人にたいする税制について知らない点があり、去年の滞在の仕方がいちばん税額が高くなってしまうマズい滞在の仕方だったことがわかった。
想像をはるかに上回る税額。
去年の8〜9倍近い額。(売上額は1.5倍ほどだったにもかかわらず・・)
一瞬言葉を失って、絶望の時間が10分ほど続いて、その間は何もできない、何も話せない、何も考えられないような状況で命がとまってしまったようだった。
でも、そのうちに何らかの助けがあって、マインドのなかで何かが癒やされて、また動けるようになって、担当の方にたいしても冷静にいろいろと手続きについて聞いたりできるようになった。
結果としてその日のうちに、なんとかできる限りの方法でお金を集めて支払いを済ませることができたのだけど、
動けるようになって支払いの手続きをすすめ始めてからは、逆に解放感が自分のなかを通り抜けていく感覚があった。
ここまで貯め込む必要に縛られてたのか、と。
ここまで未来にたいして不信と怖れを感じていて、自分のなかに貯め込む必要性を感じていたのか、と、(自分にとってはかなりの量の)まとまったお金を手放してみて初めて気がついた。
表面的なレベルでは、大好きな台湾のためにこれだけのお金を投資したんだ!嬉しい!というような思考も上がってきたりして、何か自分の内側の大きなものへの信頼を表現する機会になったような、そういう感覚になっていった。
ありがたい・・・これはブログに書きたいな・・・と噛み締めようとしてる間もなく、すぐに次の題材が上がってきた。
そのあと久しぶりに台北の行きつけのカフェに行った。
そこは外側にも席があって、静かで外の空気に触れながら気持ちよく過ごせる場所としてお気に入りだった。
行ってみると、となりの席に台湾在住でどこかの中国語学校に通ってるらしい日本人女性二人組がいて、彼女たちがかなりの声量でぜんぜん仕事に集中できん・・・という知覚が起こっていった。
表面的な部分でイライラや攻撃の思考がでてきて落ち着かなくなったので、しっかりとinstrument for peace を書き込みながらやってみることにした。
それででてきたのは、自分は台湾に来ることによって世の中から隠れようとしている部分があること、そこに日本人が入ってくることによって、自分でつくった狭いテリトリーが侵犯されているように感じて、攻撃心を感じてその狭い自分だけの世界を守ろうとしている・・というようなことだった。
「私が逃げ込んだ狭い世界に侵犯してくる奴らが責められる必要がある」
「せっかく隠れていたのに奴らが侵入してきて自分が暴かれ、晒され、おおやけのもとにクズ認定されることになることを怖れている」
「私は世界から隠れないといけない罪深い存在だ」
これらの知覚について、私が間違っていることを望む。
そしてこの具体的な事象が何らかの原因として起こってるのではなくて、
自分の内側の抽象的な信念の部分から、このめっちゃリアルに見える具体的な事象が映し出されてるんだ!!というのが感じ取れてくると、何かすごい解放感が垣間見えてきた。
またひとつ、自分が守ろうとしていたもの、自分の今の状態が過去と未来の影響下にあり、今の自分は被害者であるというしがみつきを、表に出させてくれる機会となった。
「この世界のすべてのものごとは、一緒になって、私にとってのよきことのために働いてくれる」というinstrument for peaceの一文をまた確認させてもらえることになった。
そのあと、今度はあることについてジャッジしていたSさんから、自分にとって助けとなる内容のメッセージが送られてきた。
彼女をジャッジしているな、とはうすうす気づいていたので、それについてしっかり向き合うタイミングだと感じ、またinstrument for peaceに書き込んでみることにした。
でてきたのは、彼女を「自由に自分自身の喜びを追求できる人」の象徴のように見ていて、それにたいして自分は「救われるためには正しくある必要がある存在」で、それと同時に「みずからの自然な自発的な喜びを犠牲にしないといけない存在」でもある、と信じているということだった。
なので彼女にたいして攻撃心を感じざるを得なかったのだ。
オレはこんなに自由に喜ぶことができない存在で「正しく」ないと救われない存在なのに、自由にやりやがって!!!みたいな。
「彼女が責められるべきで」
「彼女のように自由によろこび・たのしみを味わわずに自分が死んでしまうことを恐れている」。
これらの事象すべてにおいて自分が演じてる役割を、罪悪感なしでみることを学ぶことができる。(instrument for peace のステップ3)
そして根っこの信念と欲望・・
「私は正しくないと救われない、自発的なよろこびを犠牲にするしかない存在だ」
「私は正しくあることで救われることを望んでいる」
ここでもこの抽象的な信念から、この具体的なすべての事象が映し出されていることに驚く。
そして、自分が間違っていることを望むことができる。
私はこれらの信念や欲望から自由になることを望む。
間違っていることを望む。
さらにそのあと起こってきたのは、性的な憧れや執着にたいする気づき。
自分の場合は「自分の外側に救いがある」という信念が、わかりやすい形として「女性にたいする性的な憧れや執着」にあらわれている。
これについてもしっかり見ていくモチベーションが高まったのでinstrument for peaceをやってみた。
すると見えてきたのは、
「私が欠損した存在で、永遠に求め続けないといけない呪われた存在だ」
という信念の結果として、
外側の若く美しい女性のセックスにたいする強い求め、
執着、あせり、切迫感を感じ、それを手に入れられていない自分やその賜物をすでに手に入れている人や世界を攻撃していて、自分がそれを手に入れることができないまま、欠損したまますべてが終わってしまうのを怖れている、
という知覚が現れているということ。
「私は欠損した存在で、永遠に求め続けないといけない呪われた存在だ」。
これはかなり強力な信念のようだ。
この強力な抽象性から、この具体的な世界が映し出されている。
そしてこれを信じているので、私が幸せになり、完全になり、平安であるためには
「若く美しい女性のセックスを(つねに)手に入れている必要がある」と考えている。
絶望的な信念と欲望。
この不足の信念と、その結果として現れる期待・欲望は
私にとってこころの平安よりも重要なものだろうか?(ステップ8)
私はこの信念と欲望をゆるしたい。
そのためにこころを開きたい。
別の見方を教えてください。
私は間違っていることを望みます。
ありがとうございます。