夜、リモワのスーツケースについての話をきっかけに、父との会話のなかで感情のたかぶり・わだかまりが生じるということがあった。
翌朝もそのような感情が再浮上して、そのままにして家を出たけど、
どうしてもこの感情のわだかまりをそのままにしたままこの1日を送ることはできないというのが上がってきて、家に引き返して話すことにした。
話す前にイエスにすべてが導かれるように祈りながら。

そしてできる限りの誠実さをもって、父に自分の感じていることや考えていたことなどを伝え、父もどんなふうに考え感じているのかを率直に話してくれた。
話しながらも、イエスにいのっていると、父の話している姿が聖霊なのだという感覚も感じられた。
そしてひととおり話をしあうと、胸のつかえはとれていた。

ほっとした。

そしてふたたび家を出た後、これは象徴的だったかもしれない、、と思った。
というのは、まずこのまま放置できないような感情のわだかまりと胸のつかえを感じていて、それが率直に父と話すことによって見事に消え去ったという体験。
これはそのまま、この世界でいろんな苦しみや感情のわだかまりの中で生きていて、真の、究極のしあわせみたいなものを感じられない「わたし」と、「父=神」の関係をあらわしてるんじゃないか。
神にむかい、率直に話すことで、みごとに消え去るような「この世界のわだかまり」でしかないんじゃないか。
そのことを象徴的に見せてもらえたような感じがした。
父、イエス、ありがとうございます。