リモワのスーツケース
今の生活形態から、冗談で「これが私の家だよ」といつも言っているスーツケース。そのキャスターがこわれた。
直すのも安いスーツケースを買うのもそんなに費用に違いがなさそうだとわかってから、新しいスーツケースを買う方向で考え始めた。
最初は2-3万円くらいのを探していたけど、横浜に出たとき、高島屋にリモワのお店が入っていたので、のぞいてみた。
15万ほどするスーツケースで、「あこがれ」のスーツケースでもある。
触らせてもらうと、やっぱりぜんぜん違う・・という知覚がおこる。
おそらく、この人生でのスーツケースに関しては、今後もし購入するとしても「最高峰」扱いになるであろうスーツケース。
今まで時計とか車とか物質的なものには魅力を感じていなかったけど、これに関しては「所有して使ってみたい」という抗えない気持ちがあることに気づいた。
そして、「時計とか車にお金を使ってこなかった分もあるし、自分にとっては家みたいなもんだし、ここにお金をかけてみてもいいんじゃね?」という表面的なレベルの思考があって、購入することに決めた。
購入を決めて、注文して、届くまで、何か以前とは違った感覚があるのに気づいていた。
以前ならもっとあったはずの「自我的なワクワク感」が思ったほど感じられない。
そして昨日家に届いて開梱して実物を目の前にしてみて、やっぱり自我的なワクワクがそれほどないことに気づいた。
それよりも最初に上がってきたのは、これをもって出歩くことで周りから攻撃の目で見られるという恐れと罪悪感。
日本でも海外でも嫉妬やねたみや攻撃の対象として見られるのではないかという。
でもすぐに、これは自分自身がもっていた思いだということが思い出された。
仕事仲間でかなり儲かっていてリッチな生活をしているように見える人たちにたいして、自分がもっていた攻撃心。
なんのことはない、それが自分自身にたいする攻撃として知覚されているということだった。
そして次に起こってきたのは、ああ、もうこうしたすべてが「自分の」手には負えない、という思い。
こういう「もの」をもっている・もっていないとかで分離があるように見えることとか、リッチな生活をする人がいて、そうでない人がいるとか、そこにまつわる攻撃的な思いのすべてとか。
そういう分離の思いのすべてが「自分の」手には負えない、もうこれらすべてを聖霊にささげるしかない、どうか捧げさせてください、とこころから思えてきた。
そしてこのリモワのスーツケースをもって外を歩いている、この自分という人間をイメージしたとき、本当にこのスーツケースは「自分のもの」ではなく、つねにこの「モノ」とそれにまつわる思いのすべてを聖霊に捧げ続けないとやってられない、、というのが上がってきている。
それと同時に、このスーツケースと同じように自分にとって「価値の高いもの」と判断している、この「自分のからだ」についても同じだと感じられてきた。
同じように、この肉体、この「自分にとって価値がある」「自分のものだ」と思っている肉体と、それにまつわる思いのすべてを聖霊に捧げないとやってられない・・・と。
本当にこれらすべては「わたしのもの」ではありません。
そんなことを信じていては、もうやってられません。
どうかこれらのモノ、にくたい、それにまつわる思いのすべてをあなたに捧げさせてください。
そういう気持ちをもちながら外を歩いていると、なにか肉体をこえてひろがっていく可能性みたいなものがすこし感じられ始めた。
ありがとうございます。