もとめて、質問するだけ。

質問するだけ。
あなたは私に何をお望みですか?

 

そうすれば必要なものはすべて与えられている。

自分で「何か」とか「手応え」をつかむ必要はなかった。
かえってそういうのは邪魔でしかなかった。

 

最近でいうと「本当のこととそうでないことを明確に区別してうんぬん」
みたいなのとか。
つかもうとしていたけど、そういうのも必要なかったんだな。

 

質問することだけしていれば、そのときに必要なものが与えられる。

ただいつも質問することだけしてればいい。

最高の目的を定め求めて、質問するだけ。

あなたは今、わたしに何をお望みですか?

 

そうして開いたコースのページに、まさにどんぴしゃ、これ以上ないことが書かれていた。

18章のセクション4「ささやかな意欲」に書かれてことが、これまでになくしみ込んでくるのを感じながら読んでいた。

 

私の「神聖であろうとする意欲」が「答え」=聖なる瞬間をもたらす。
自分がやる必要があるのは、この意欲をもつとこまで。
それ以上はやりすぎで、自我を聖霊にもちこむことになる。

 

聖霊が、そこに偉大さと意力をつけくわえる。

 

意欲だけを無条件にさしだす。
そのまわりを影が囲んでいたとしても、それに動揺しなくていい。
そのために聖なる瞬間があるのだから。

 

「あなたは神を迎えるために自分自身を準備する必要があると考えてきたが、それは間違っている。

聖性を迎える準備を傲慢にも自分で整えようとすれば、平安の条件を確立するのは自分の役目だと信じざるを得なくなる。」


「あなたは質問するだけである。」
「自分で答えようとしてはならない。」


「聖なる瞬間のために用意するにあたっては、
自分自身を神聖にして、それを受け取るための準備を整えようと試みてはならない。
それはあなたの役割と神の役割を混同することに他ならない。」

 

神のために、自分で自分自身を準備しようとしなさんな。

 

自分で「救われるための条件」をととのえようとせずに、

無条件に求めていいんだよ。

アホになって無条件に求めていい。

 

思えばユタで感じさせてもらえたのがこれだった。

 

 

そのあと台北からのバス移動中、ずっとデイヴィッドのABCを繰り返す感じになった。

A 私はからだではない
B 心は攻撃することはできない
C だから病気ではありえない

 

こういうのもつかむ必要はなくて、いつも質問するだけ。

 

今日もダルさを知覚しながら、ABCを繰り返す感じになっている。

 

ああ、ほんとうにからだではないなにかをもとめてもいいんだな、そうでないものを手放していいんだな、と、知覚がホッとする。と同時に、「そうでないもの」、からだにまつわるいろんなものが、ぐわーっととぐろを巻いて巻き上がってくる感じがしている。