神のお望み

神様、あなたは私に何をお望みですか?
と聞いてると、いわゆる具体的に何をするといったのではない何かを感じ取っていた。

「あなたにはこれくらい無条件に無限にしあわせを感じてほしいんですよ」
みたいな「お望み」。

(自分では想像もできなかったような)素晴らしさ・完全さをあなたに知ってほしいんだよ、と。

それは自分では思いもよらなかったことで、ありがたいな、という感じがしていた。

 

そして先日、なにかコース以外でマインドに入れたい、何かを読みたい、というのが上がってきて、Aさんのブログに共感したこともあって五井先生の本を探した。

 

ところがAmazonでは五井先生の本はキンドルに一冊もなっていなかったので、
仕方なくキンドルで読めそうな別の本を探していた。

それでたまたまみつけたジェフ・フォスターという人の書いた
「もっとも深いところで、すでに受け容れられている」
という本。

 

「ノンデュアリティ」についての本ということだったけど、読み始めた。

読み始めてみると、たしかにコース的な罪悪感的なところはスルーしてる感じだけど、そのあたりを補完しながら読みすすめると、これ以上ないくらい今このときにぴったりの内容で、自分の体感というか感覚がどんどん深まる感じ、自分のなかにあるものを無条件に深く受容する感じを思い出せる、そんな感覚を覚えていった。

 

そしてその感覚が深まるにつれ、大声で笑けるということが何度も起こっていった。

幸い、深夜のコワーキングスペースで、広いスペースに自分のほかには誰もいないという環境だったので、思う存分笑いまくった。

この深まり、すべてを深く受容できる感じ、何か今までの感じとはぜんぜんちがう別の感じ、笑ける感じはすごくありがたいなと感じていた。

 


・・・本には、「何かから逃げる、避けるために、何かを追い求める、探求する」ということを私たちはやりつづけてるのだと書かれていた。

 

「追い求める」という動きに巻き込まれるのをやめて、これらのすべてがすでに無条件に完全に深く受容されていることに目を開く。

 

おそらく「何かから逃げる・避ける」というのは、つきつめると、あの根本的な罪悪感、「闇の隅石」から避けようとしてるのだと感じた。

でもそれから逃げようとするのをやめてそっちに目を向けてみると、恐れていた深い罪悪というのが実はなかったことがわかってしまう・・それを自我は恐れている・・そこから逃げようとしている。
そのことを言っているように感じた。

 

そしてそれは、今後私がなんとかしてそのように見れる何者かになっていく、といったものではなくて、すでに今この瞬間完全に、無罪性のもと、すべてが受容されていると。
そのことに目を開くだけだと。

そのことを教えられているように感じた。

それに触れたとき、あの大笑いが起こる。

ありがたい。


そして今日、このまえの勉強会のNさんのところを聞いていた。

そのなかでのりこさんが話されていた
「弱音を吐き出させてくれる存在が今ここにいるとして・・」
という言葉がぐぐっと刺さってきた。

ああ、そういう存在に頼れるということをまったく受け入れてなかったな。

もしそういう存在がいるのだとしたら、すげー吐き出したい弱音がいっぱいあるやんけ・・・。

それくらいひとりでがんばるしかないという前提が大きかったんやな。

そしてそういう存在の前で弱音をすべて吐き出させてもらえる、たよらせてもらえるとしたらすげーラクだな。。

そいうことを感じさせてもらえた。

もうほんとにこの肉体が自分だとしたらもうほんとに終わりやもんな。救いがないもんな。

勝たんといけんし生き残らんといけんし、でもどっちも無理やし。

そしてこういうのもすべて今この瞬間深く無条件に無罪性のもと完全に受容されとるなんてすごいな。

ありがたい。