嵐と静謐

ラファエルに、台湾と日本で、身体がラクに感じたり、キツく感じたりという違いを感じていること、それにまつわる自分の思考をシェアした。
それも信念にすぎない、といわれたとき、
一瞬またそれかよ、とカチンとする反抗心が上がってきたけど、
そういうのも含めた、
この自分が生きているということそのものが信念にすぎないということに圧倒されて、その反抗心をもつかんでいられなくなった。
ただ川にとびこんで、その流れに押し流されるがままな感覚。

こういう「自分」という信念の、もっと深いところ、あなたが何者でわたしが何者かという究極のところをもとめて受け取ること、その深い静かな「欲望」を受け入れてあげたい。

これは「自分の」「欲望」というより、もっと全体的ななにかの「欲望」に感じる。


あと映画の話のなかで。
始まりと終わり。赤ん坊と死。からの、始まりも終わりもないもの。
映画が描き出そうとしていることのとてつもないhugeさをはじめて感じた。

俺はなんでこの映画に関わってるのか、まったくわからない、といったら、
すべては祈りのこたえなんだと言われた。