大きなもの
気づきとかメモったことをブログに書こうとしていたけど、どうも思考が落ち着かない。
ザワザワしてるので、いったん外に散歩に行くことにした。
外にでて、近くの公園をぶらつきながら、あの1つの目的と祈りに集中する。
「Forgiveness is the healing of the percepition of separation」
「Who are my brothers and sisters?Tell me,tell me,tell me・・」
真に共感できる、ひとつの目的、祈りがあるのはありがたい。
そこに戻ることができる。
そうしているうちにコントラストのように浮き上がってきたのは、コンペティティブ(競争的)な思考だった。
気づきが立て続けに起こる中で、どうやらコンペティティブな思考が上がってきていたようだ。
それに気づいた。
「癒やしがすすんでいるように知覚されている祥子さん」への対抗心とか、自分がこの気づきを皆に教えてやらんといけん、とか、そういう思考。
そしてなぜか、そういう思考があったんだ、と気づくだけで、落ち着きと静けさが戻ってきた。
「ええっ?こんな”嫌な・恥ずかしい”思考があるのに、こんなにすぐこころが静かになっちゃっていいの??」
と意外な感じがした。
どうやら、その背景にあるもの(最近感じているコラボレーションのリアルムとか、あのコースの真髄の一文が指し示すもの)がでかすぎるので、こういう思考があってもまったく問題がないと感じられてるみたいだ。
仏の大きな手のひらの上で遊ばされてるみたいな。
真実は、神は、そういう思考があることにぜんぜん困ってない。笑
こういう思考を、なくそうとしたり、変えようとしたり、方向付けたりする必要がまったくないのがありがたい。
そして目的と祈りに改めて心を向ける。
「Forgiveness is the healing of the percepition of separation」
「Who are my brothers and sisters?Tell me,tell me,tell me・・」
ありがたい。