10月20日の勉強会

10月20日の勉強会をとおして体験したこと。

 

・画面ごしではあれ、ラファエルの姿を台湾で見送った時ぶりに目にしたとき、やはり自分のなかで何かが切り替わる感覚、焦点があるべき方向に向けられるのを感じた。
やはり私の知覚のなかでは、ラファエルという存在をとおして何か大事なものが発されている。

 

今後自分がどうなるにせよ、どういう選択をすることになるにせよ、この「ラファエルの存在感、またはラファエルをとおして感じるもの」の正面に立って向き合っていきたい、そうするしかないと感じた。

 

そこから逃げていてはどこにも行き着かなくさまようだけになる。

 


・のりこさんがラファエルがよく言ってる言葉として話されていた「主よ、わたしはここにいます」「Lord,here I am」という言葉。
台湾でもラファエルからこの言葉を聞いていたけど、そのときはピンとこなかった。
それがこの日の勉強会で聞いたとき、この言葉に、思っても見なかったような力があるのを感じた。

 

「私に何をし、どこへ行き、誰に何を話してほしいですか?私をあなたの道具としてお使いください」
の前にいうべき祈りとして感じた。

 

肉体として分離している「わたし」としてではなく、「主」に属するものとして祈り尋ねるという宣言のように感じる。

 

それを宣言することで、同じような知覚世界に存在しているように見えても、それを見る主体の位置が切り替わるように感じる。

 

 


・のりこさんがなおこさんに伝えられていた、「イエスが信頼できないなら、イエスより信頼できるだんなさんをとおしてイエスの言葉を聞くこともできる」という話。

自分もそこまでイエスを身近に感じれていないのでたすけになった。

 

自分の場合は死んだじいちゃん、ばあちゃん、桝井のおじちゃん。イエスと同じレベルバージョンの彼らがわたしに教えてくれているのだとすると、まったく想像もしたこともなかったような力強さ・心強さを感じる。

 

わたしたちは肉体ではないのだ、ということをイエスと同じレベルバージョンの彼らが教えてくれているのだとしたら、本当に肉体ではないことを受け入れていけるかも、、という感触があった。

 

 


・のりこさんの「私たちは自己憎悪で輪廻を繰り返している」、そして「聖霊はそれをどう見ているか、たずねてみる」という話。

 

それを聞きながら、ああ、ほんとにそうだ、自己憎悪でずーっっと苦虫を噛み潰し続けているのが、この肉体として表現されていると感じた。
具体的にはたとえば顎関節症っぽい顎のこわばりとか、この噛み潰す力の歪みが小さいころからの歯並びの悪さ・歪みとしてもあらわれているように感じた。
そしてとくに顔の表情筋をつくっている細胞を中心に、全身の全細胞の奥深くのコアあたりにこびりついているギューッと苦虫を噛み潰し続けている動きとしても感じる。

 

そこに自己憎悪の声があるのを感じる。

 

そしてこういうすべてをどうにか変えようとしたりする必要がなくて、こういうのを感じつつも「主よ、私はここにいます」ということができるし、聖霊にどういうふうに見ているかたずねることもできる。それが完璧だと感じた。

 

「主よ、私はここにいます」と言いながら、輪廻を繰り返す要因となっている、この深い自己憎悪とその表現を、それを正そうとかもせずに感じていると、ラファエルといたときの最後に感じた、あの深い怒りと深いよろこびを同時に感じるような、あの感覚に近いものが感じられてきた。

 

自分の内側に、清濁関係ない完全な力があるような感覚。

 この感覚には本当に愛を感じる。大好きだ。

 

・映画のファンクションについての話をききながら。
まだやはり、こういう「具体的に何かのファンクションをやる」ということと、「それが正しいことだから」「それが求められていることだから」と、自分の外側になんらかの権威や力があることにして(つまり自分の内側で感じてることとか真の欲求を無視して)、それに従ってみせることで取引をしようとする動きとが、相変わらず自分のなかでつながってしまっていると感じる。

言いかえると、力や権威や「おれをこんなふうにした(している、するであろう)責任」を、外側に見たいという欲求がある。

 

そして仮に今の状態で何らかのファンクションをやると想像したとき、外側に権威とか力とか正しさの元を見てるので、自分を被害者にして怒りを外部に向けることになるな、と感じた。

 

さらによく想像してみた。

 

すると、表面的には外部のたとえばラファエルとか「イエスに導かれた映画というファンクションがあるという状況」とかに怒りが向くように見えるのだろうけど、実際にはファンクションとかラファエルとか映画が現れる以前に自己憎悪の発現先をもとめている動きが内側にあるのを感じた。

 

ああ、ファンクションにまつわるこの画全体が、自分にとってはそもそも自己憎悪の現れになっとるんやな・・・と、これは今日思い至った。

 

このことをよく感じてみたい。

「主よ、私はここにいます」と言いながら。

 そして聖霊はこの自己憎悪をどうみているのか、聞いてみたい。

その見方を全面的に受け入れたい。

そのうえで、自分が本当にどうしたいのか。
そこにある力とともにありたい。