本当に、そこだけに、あらゆるフォーカスを、最大限の力を注ぎましょう。(追記あり)

恋愛面での失望から内側の強さに向かうということが最近あったけど、
仕事面でもある局面を迎えていて、うまくやれている人の情報をあえてとりにいくということをしてみた。


そっちの極を見てみると、やはりそこでうまくできるようにしようとか、そういうモチベーションが自分の内側にないということが見えた。それが見えたのは良かったと思う。

 

今朝起きたときは、この世界のものごとにたいする「うつ」みたいな感情を感じていた。
ここまでの「この世界に倦む感じ」は、これまでになかった。

 

これはわるい感じはしていなくて、むしろ新しい感じ、新鮮な感じ、そして未知へと踏み出す前のような感じがしている。

 

 

そしてこのタイミングで、エリックが先日のリビングミラクルズのオンラインリトリートでの気づきをブログに書いてくれていたのを読ませてもらい、それが自分にとって非常にタイムリーで、非常にたすけになると感じている。


(以下の内容は、オンラインリトリートでフランセスとデイヴィッドによってまさに語られていたことと、それにたいするエリックのインスピレーションの合わさったものだそうです。エリックのブログより。http://erikarchbold.blogspot.com/2019/

 

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(フランセスのセッション)

1.私たちの心の創造する力は、つねに、つねに、活動しています。
それは眠ることはありません。

なので、あらゆる瞬間にこころを注意深く見ることが重要です。

 

なぜなら心はその力を
真実と一致し拡大するために使っているか、
あるいは幻想をより複雑にするために使っているか
どっちかだからです。

私たちが経験するこの2つの目的の違いは、天国と地獄の違いです。

 


2.どんなにそれが微妙なものでも、自我の動機づけや自我の目的にたいしてできるかぎり正直であることが必要です。
たとえば何かをしていて幸せを感じていないとき、自分にこんなふうにたずねてみることが助けになります。

 

「私は誰かをよろこばせるために、これをやってるんだろうか?」

「誰かに認めてもらうために、これをやってるんだろうか?」

「自分が愛されていることを証明するために、これをやってるんだろうか?」

 

私たちの隠された動機を正直に認めることが、癒やしのプロセスの始まりです。

 

 

3.ただリラックスしましょう!
リラックスした状態のときにのみ、私たちはスピリットから聞く必要のあることを聞くことができます。


でも私たちはこのスピリチュアルな旅路を深刻にとらえてしまいがちです。まるで私たちが個人的に「正しくあらねばならない」かのように。
奇跡講座のなかでジーザスがはっきりと述べているとおり、私たちの小さな役割は「小さな意欲」を持つことです。


そしてフランセスが「ただリラックスして、私たちが自分に課してきたどんな深刻さやプレッシャーも手放してしまいましょう」と私たちをいざなったとき、私はとても深い何かを理解しました:


リラックスすることこそが、私が自分の小さな意欲をスピリットにささげることなんだ!!


私が張り詰めて、何かを理解しようとしたり「正しくあらねば」となっているときはいつも、私はスピリットのファンクションを横領しようとしていたんです。
リラックスすることが私のファンクションなんです! 

 

ーーーーーー中略ーーーーーーーーーー

 


(デイヴィッドのセッション)

1.「目的」とは心のなかにある、心における目的のこと。
それは肉体やどんな種類の形態とも関係ない。

 

これが私にとって意味するのは、たとえば
「私は何をすべきでしょう?」
「この地球における私の目的は何でしょう?」
とたずねるとき、すでに自我のやり方につかまってしまっているということです。

 

「心における私の目的は何でしょう?」と、こうたずねるべきなんです。
この質問は、私の意識を、自分が肉体ではなく心だという事実、夢を夢見ている者だという事実へと引き戻してくれます。

 

そして夢見るものとして、私にはただ2つの選択肢しかありません。
私は眠りこけ、自分が肉体であるという信念を強化するためにこの夢を使うこともできれば、
知覚するすべてのシンボルをゆるすことによって、聖霊に夢から目覚めさせてもらうこともできます。

 


この話題に関連して、デイヴィッドは「宇宙の消滅」についても話していました。
すべてはそこに帰結するんです。


なぜなら「物理的な宇宙」とは、心を眠らせておくためにつくられた自我の投影だから。

「目覚め」はまず先に夢が夢として見られている「幸せな夢」へと導き、最終的には恒久的で啓示的な「夢の完全な消滅」の経験へと続きます。

 

ですから、質問はこのようになります。


「私は(肉体としての自分がいるという)この夢を、手放す意志があるだろうか?
これらすべてを手放す意志があるだろうか?」

 

もしそうでないとすれば、この世界でまだ何に価値を置いているのかを見ると良いでしょう。
そのことで自分を責める必要はありません。
ただシンプルにあるがままのことに気づけばいいんです。
「問題に気づくこと」がそれから自由になるための最初の一歩です。

 

 

2.スピリットにたいして「透明であること」の重要さ。
何一つ隠さない。
闇の思考が上がってくることをゆるし、スピリットの光のもとに晒す。

 


ーーーーーーー中略ーーーーーーーーーー

(デイヴィッドによるムービーセッション「illusion」)

 

リトリートの3つめのセッションで、デイヴィッドは「illusion」という映画を見せてくれました。
もしみたことがなければかなりオススメですし、見たことがあったとしてももう一度見るべきです。

 

www.youtube.com

 

 

この映画は私の中に何か深い感情を呼び起こし、
また、さきほどの質問も呼び起こしました。


「私は自分の人生という映画を終わらせる意志があるだろうか?
もしないなら、それはなぜ?
私はそれと同一化しているのか?
もしそうならその同一化は、それと引き替えになっている私の真のアイデンティティを見失うだけの価値があるだろうか?」

 

深い質問です....

 

映画の後デイヴィッドは、目覚めることに私たちのあらゆるすべてのフォーカスを当てることの必要性について、本当に強調していました。


本当に本当にそのために最大限の力を注ぎましょう!と。
もう自分を引き止めるのはやめましょう!と。
そこに私たちのハートのすべてを注ぎましょう!と。

 

彼がこのように話し始めたとき、私のハートは本当に奮い起こされました。

そして自分がいかにこれらの言葉を聞く必要があったかを理解したのです。

 

私はあまりにも良い人であることに囚われ続けていました。

自分がいかに深く「個人であること」を超越したいと思っていたかを忘れてしまうほど、「良いスピリチュアルな人」であることに囚われていたのです。

 

 

(最後のセッション。デイヴィッドと参加者とともに)

セッションのあいだずっとさまざまな気づきで心が爆発しそうだったので、たくさんのノートをとることになりました。ここに記したいくつかはデイヴィッドの話にもとづいたもので、他のいくつかは私の心にあがってきたものです。
ただそれもあきらかに彼が話したことと関係しています。

 

そのリストといくつかの詳細を以下に記します。

 

1.私は何一つ理解する必要はない!ただ信頼し、思考をみるために思考の下、内側に向かって沈みこんでいくだけでいい。他にやることはない。。。

 

2.未来の計画をたてることですら、肉体としてのアイデンティティを作ることになる。
そして肉体としてのアイデンティティを作るということは、私たちの真のアイデンティティを否定することになる。

 

未来のプランは私を「通して」つくられることができ、これは肉体とそのパラダイムの安全を守るために計画を立てるのとはまったく違った経験だ。

 

個人的に計画を立てることは、神の子への、私たちの真の自己への攻撃にほかならない。

 

3.未来についてただ心配することさえも、神の子を攻撃しているということ。

 

4.もういちど・・・私の目的、私のファンクションは心の中の話だ(肉体についてのものではなく)。

 


5.心だけが救いを必要としているのであり、「人々」ではない。


そして平安を通してのみ、それは救われる。
平安のために必要なのは、心のなかのただひとつの声に耳を傾け、従うこと。聖霊の声に。

 

 

6.私はゆるすためにここにいる。(そしてそれがすべてだ!)

 

7.愛は内容であり、いかなる形態でもない。(奇跡講座16章セクション5 段落12-1)

 

8.亀のようであれ。ただリラックスして、ゆっくりいこう!神へ戻る道は、ゆったり、安定している。

 

9.最後に、私が大好きなこと:
もし次に何をすればいいのかクリアじゃなかったら、クリアになるまで何もしないのがベストなのかも。
私がしなければならないことなんて何一つない。
なぜなら「すること」はどんな原因にもならないから。

 

それはつねに、心の中の私の目的が反映されたものにすぎず、
それ自体には何の影響力もない。(「すること」は決して原因にはならない)

内側を見るという私の意志が、求められているすべてであり、
「助けになる行動」として現れていることはすべて、
この意志から自動的にあらわれでたものにすぎない。

 

 

ーーーーーー後略ーーーーーーーーーーーーーー

 

ありがとうございます。

 

 

(追記)

「私は何をすべきでしょう」とたずねるのではない、という話を聞くと

聖霊は行動のレベルでは導かない」

ということについての論争を思い出す。

 

これについて、今の時点で感じるのは、

私が行動する肉体だと信じてしまっている以上、

そしてそれが私の心の内側にあることなのだと信じている以上、

行動もふくめてすべてを聖霊のガイダンスのもとにあけわたす必要がある、ということ。

 

だからそれをはたから見れば

「行動についての導きを求めている」というふうに見えると思う。

 

でも、もし「聖霊は行動のレベルでは導かないから、(行動はおれの自由だ)」というふうに分けていると、聖霊にたいしてさらさない部分を自分の心のなかにキープすることになるんだと思う。

 

すべてが自分の心なのだ、と認めると、行動についても導きを求めることになるんだと思う。