よきことしか起こってない

セルフコンセプトはすべからく、
「自分は価値のない罪人じゃ」という信念にもとづいて、その信念を覆い隠すため、あるいはその「事実」をカバー・補填するためにつくられてきたもの。

だからこのセルフコンセプトの「中」で幸せになろうとしたりすること、そのものに大きな無理がある。


完全な平安、完全な自由を求めるなら、セルフコンセプトというものはすべからく崩壊する運命にある。
というか、それがもともとでっちあげられたもので実在していなかったことを受け入れることになる。

 

なのでもし完全な平安、完全な自由を求めるなら、
今これが自分だと感じている、このセルフコンセプトのなかでそれを自覚することはありえないということを受け入れることになる。


そして
それ以外の何かに対して開き、それ以外のなにかを受け入れることになる。

その何かとは、心の奥にある「自分は価値のない罪人じゃ」という信念が洗い流された先からやってくるもの以外の何ものでもない。

 

コワーキングスペースの若い学生カップルを知覚するなかで心の乱れを感じて、
このセルフコンセプトとしての自分のなかに「解決」はないことを受け入れざるをえなかった。

(知らずに、台湾に帰ってからの生活をつくろうとするなかで、従来のセルフコンセプトに沿った、それを維持していくための世界をつくろうとしていた。。)

 

彼らが本当に救い主だ。

 

これは映画ファンクション中に起こった出来事についても同じことが言える。

セルフコンセプトが自分だと信じている視点からすると痛みでしかないようなことも、真理をもとめる祈りのこたえでしかなく、よきことでしかなかった。