繰り返し、削ぎ落とし、

勉強会。
順子さんのシェア。
悲しみが覆っていること。
そのシェアがとてもたすけになる。

自分のなかにもあるもの。


こうしてお互いに内側をさらすことで、
個人はないことを確認させてもらえる。
自分たちすべてをつつんでいるひとつのこころである愛のこころを確認させてもらえる。

 

 

そして自分の前のかなえさんの番のとき、
自分の姿をうつしてこの場にチューニングをあわせるといい感じがした。


「話している人に自分の全注意をそそぎこむことが、その人にとってもっともたすけになることなんだよ」と、リビングミラクルズの話をラファエルが以前してくれたように。

そうしているとき、ふっと、
自分が最近経験していた「年齢をあらわにすることへの恐れ」にまつわるインスピレーションが降りてきた。


あの恐れの主要な部分は、「自分はちいさいころから愛を与えられていない。だからそこで成長・時間がとまってしまっていて、普通の人より劣っている。それをバラされるのが怖い」という信念からの恐れだったということ。

 

まさに「欠乏の信念」だ。

 

ここまで具体的な質感をともなって「欠乏の信念」に触れたことはなかったと感じる。

 

そして自分が好きだと思っていた人への感情も、この欠乏の信念をもとにして、
「俺は愛が欠乏したままだから、そこを埋める人が必要なのだ。だからあなたにここを埋めて貰う必要がどうしてもあるのだ」という強いこだわりからのものだったということも、ありありと感じられた。

ああ、そうか。。。

 

ここまで具体的な質感をもって欠乏の信念に触れられたのはとてもいいことに感じる。

 

これを自分ではどうしようもないので、
真実を知っている存在、内なる叡智、スピリットに向けて手渡して、いいようにしてもらうしかない。

 

そこにしか救いはない。

 

自分のしごとはこの欠乏の信念に気づいて触れて、スピリットに手渡すこと。

その先はいいようにしてもらえる。

 

 


こんなふうに、あらゆる関係をとおして
完全な自由や完全な平安、よろこびの自覚をさまたげている
今回のような欠乏の信念に気づいていくこと。

 

そしてスピリット、ジーザスにたすけをもとめて、たすけを受け入れること。

 

それを繰り返しながら、
完全な自由、完全な平安、完全なよろこびへと開かれていけますように。

 

どうかわたしの存在のすべてが、
わたしたちすべてのいのちの完全な自由、平安、よろこびのために使われますように。

 

ありがとうございます。