こちらから手を伸ばすために。
もう、スピリットやジーザスを現実として受け入れないとやってられないところに追い込まれていると感じる。
そんななか、4分裂の映像に惹かれるものを感じて、じっくりみてみた。
前は知識として入ってくるだけだったけど、
今は何か、前よりも実感をともなってる部分があるのを感じる。
同時に、この4分裂の全体像からすると、
自分は本当に初歩の初歩の場所にいるんだな、と感じながら聞いていた。
それからシャワーを浴びにいった。
シャワーを浴びながら、ふっとあたまによぎったことがあった。
最近よく飲んでいる、ブルーボトルの炭酸水。
ブルーボトルに入った水といえば、
以前、ホ・オポノポノの本で心の浄化にいいと聞いてやっていたことだった、というのを思い出す。
そのときは現実をよくするという目的だったので、
コースを本格的にまなぶようになってからは、ホ・オポノポノは「役に立たないもの」というカテゴリーに入れていた。
でもブルーボトルの炭酸水が頭をよぎったところからホ・オポノポノのことを思い出して、ホ・オポノポノで使う4つの言葉も思い出した。
「ごめんなさい」「ゆるしてください」「ありがとう」「愛しています」
(順番はわからないけど)
その時ふっと、この4分裂をさかのぼっていくことをやるときに、自分と神・聖霊との関係のなかで、この4つの言葉がとても役立つことに気づいた。
とくに「ごめんなさい」「ゆるしてください」。
ごめんなさい、と聖霊がいってほしいわけではなくて、
やっちまった、罪を犯してしまったと信じていて、自分から神・聖霊にアプローチするのは恐ろしすぎると信じ込んでしまっている「私」が、まず自分のこころのなかにあるごめんなさい、ゆるしてください、という言葉を表現する必要がある。
放蕩息子が父のところに帰ってきたとき、まずは「ごめんなさい、ゆるしてください、下っ端でいいんでここにいさせてください」というところからコミュニケーションを始めるしかなかったように。
この自分のこころにある、罪の思い、やっちまった思いからの
「ごめんなさい、ゆるしてください」
を言わずに、4分裂をなんとかさかのぼって心の平安を手にしようとするのは、すごく無理があるように感じた。
神・聖霊への恐れを押し隠しながら、そっちへ戻ろうとするみたいな。
自分のなかのやっちまったという罪悪感が癒やされるために、
今こころのなかにある「ごめんなさい、どうかゆるしてください」という思いをまず表現する必要があると感じる。
実際、
「ごめんなさい、ゆるしてください」
という言葉をシャワー浴びながら口にしたとき、
無理くり4分裂をさかのぼっていこうとしていた自分の状態が、ふっとゆるむように感じた。
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深いところで罪を信じているこの心は、
この世界で自分が苦しむことで、自分の罪がある程度免除されると思ってそれをやっている。
そうやって自分をこの世界の内側に閉じ込めている。
もうそれをやめたい。
そのために、最初は「ごめんなさい」からでもいいから、こちらから聖霊・神に手を伸ばしていきたい。
そしてこの自分が信じこんでいる罪と欠乏が、実際のところどうなのか、教えてほしい。