わたしのこころの中

なおこさんとのミーティング。

自分の中にある思いを、兄弟の前にささげる。


それがどんなに自我の自分にとってさらしたくないものでも。

(とくに内容が具体的になればなるほどさらしたくないと感じる。)


それをさらさないことによって、その内容を「わたしにとっての現実」としているから。


わたしたちにはそれだけの力がある。


どんな幻でも、それが現実だと信じ込む力がある。

 

それをやめていくために、兄弟の前にさらさえてもらえる。


そしてなおこさんの言葉から気づかせてもらえた。

自分のなかに保持しようとしてる思いは、すべてそれによって「違い」をつくる思いだ。

それを保持することによって、違いを維持しようとしている。

わたしと他の何かは違っていて、別だと。

わたしは他とは違う、特別な何かだと。

違いをつくるためであれば、思考の内容はどうでもいい。

わたしが劣っていたり、すぐれていたり、どっちでも。

 

そういう思考をすべてさらしてささげていくと、それは保持できなくなる。

なぜなら違いがあるという思い・信念は実在ではないから。

あけわたされたとき、存在しつづけることに耐えられない。

自分の内側に隠して保持することで、違いがあるということを信じ込めている。

それだけの力がわたしたちにはある。


神とは違う、愛とは違うわたしというものがいると信じ込めている。

それを信じているあいだは、とてつもない罪悪感と恐れがともにあることになる。


それをやめていくために、今この現実だと思っている世界のなかで感じていること、抱いている思いのすべてを、さらしてささげていくことから始めることができる。

そこからしか始めることはできない。


こころのなかを完全にさらしてささげることができたとき、ちがいはなかったということを受け入れることができるのでしょう。

 

 

聖霊が神からのこたえ。

 

そのこたえを、わたしじしんのあらゆる思いと引き換えに、こころのなかに迎え入れたい。