遊び心に絶え間なく頭を下げる。
昨日のミーティングのときにラファフェルがいった言葉(constant bowだったと思う。絶え間ない「お辞儀」。日本の精神性のようなものとしてあらわれている何かにたいしてそれを感じると言っていた。)がしみわたり続けている。
絶え間ない、あたまをさげる感覚。
そちらに意識を向けると、たしかに絶え間なくあたまをさげるしかないと感じる何かの存在に気づく。
全体的なもの。荘厳で、すべてを包み込んでいて、めっちゃ深い精神性をたたえた何か。
そのなにかにたいしてあたまをさげるというイメージには、やすらぎのようなものと、深く大きくひろがっていく感覚を感じる。
今日、大好きな壇珠さん(みゆさん)の
「この地球自体が、宇宙の要素自体が、ぜぇええええんぶ、そもそも遊びココロでできている。だもんだから、こちらもそれをもって行動したときのほうが自然界に同調してしまいます。」という文章に触れて、これにもはげしく同意したい気持ちがわいてきた。
で、一瞬、厳粛さも感じさせるconstant bowの話とこれとは矛盾してるのか?どうなんだ?という疑問も上がってきたけど、よくみていくとこれらはまったく矛盾しないし、どちらも備えてるからこその、その「何か」のすばらしさがより伝わってくるという実感がわいてきた。
「遊び心」という言葉もたんなる浮ついたものではなくて、深ーーいよろこびと愛とやすらぎをたたえた豊かで深みのあるものに感じられてくる。
「オデッセイ」のマークのあの深刻さのなさも、この壇珠さんの言葉に通じるものがある。
コースの形而上学の言葉にたいする自分のなかのイメージに縛られて、この世界をどこかマイナス的な暗いものとして捉えるのが「正しい」んだと見ようとしてたことに気づいた。
その必要はないんだな。
自我の暗い秘密の奥を見通せば、その向こう側には愛にあふれた奥深い遊び心しかないということが本当に感じられてくるんだろう。
その遊び心に触れて生きたい。