感謝
のりこさんが勉強会で話されていて、そしてえばちゃんのブログで向き合うよう促されたように感じること。
ラファエルに感謝のメッセージを誰も送っていないという話。
痛いところをつかれたというのが上がってくる。
感謝を知らない。
自分さえよければいいと思っている部分がある。
これは人を見下す思考を湧き上がらせる部分と同じ。
それが内側にあって、私という人間のベースのようになっていることを悟られたくなかった。
だからそういう人を見下すような思考があることを隠しておきたかったし、
感謝を知らない部分がベースにあるということも隠しておきたい。
だからとってつけたような感謝のポーズをとろうとする。
そういう動き、そういう部分があることを隠しておきたかった。
なんでかというのを見てみる。
自分を感謝の通路として使わせたくない。
感謝の通路として使わせないことで、
この分離した自分という人間を維持できると思ってるように感じる。
感謝の通路として使われることにコミットしてしまったら、
絶え間ない感謝の流れのなかで、自分という分離した個人がいなくなってしまうような。
ほとんど意識に上がらないような壁をつくって「私という感謝を知らず人と比べ見下すことで維持される存在」を維持しようとしている。
そういう部分がある。
これを直視して、
その結果として、
本当にそうじゃないことを、これが間違っていいることを望みたい、という心底からの欲求が内側から湧き上がってくるのかどうか、見極めたい。
もうかなり、もうこれはいやだ、というのは感じてきている気がする。
感謝の流れに明け渡さないことで維持されてる自分(自己概念)を
、維持し続けようとするうごきがあまりにも当たり前になっていて、
感謝の流れに自分をあけわたすということをしないぞ!感謝せずに自分を維持するぞ!というのが前提になっている感じもある。
意識的に決断する必要がある感じがする。
この今あがってきているものを直視して。
どっちを求めるのか。