惨めさと壮大さ(Magnitude)

ここ何日かの何人かの人との深いやりとりを通して、心の状態が良いというふうに感じていた。
そしてこのタイミングでしょうこさんとミーティングをすることになって、これも完璧な采配だったんだなと知ることになった。

 

 

心の状態がよい、という自己判断から、自分のなかに相変わらずあった競争心にあまり注意が向いていなかった。


でも、やはりその競争心はにじみ出てしまっていて、それが今の「心の状態が良い」という自己評価と相まって、上から目線のような態度をとることになった。

 

そのことをしょうこさんに指摘されたし、そのまま空中分解のようにミーティングが終わるという方向性もしめされたけど、どうもやめる感じがしなくてその場にとどまっていると、自分のなかにあった分離をみる見方がだんだん浮かび上がってきた。
そしてそのことを打ち明けさせてもらった。

 


まず上から目線のような態度をとったことを詫びた。
そして自分のなかにはいまだにしょうこさんにたいする競争意識があって、これまでの時間はそれがでてしまっていたことを認めた。


そうしているうちにだんだん気づきが起こってきた。

 

こうして誰かを競争相手として、自分より上とか下とかになりえる存在として見ている限り、その人の真の姿を知ることはありえないと。

 

実は今回のこの時間も、しょうこさんが話をする間は「あなたは神の子です」とか「この方の真の姿をみせてください」といった祈りはあった。

 

けど、競争相手として相手を見ている部分が温存されている限り、その真の姿を知ることは不可能だったんだ。

そのことが入ってきた。

 

 

「自分と分離した誰かとの競争意識」を持つことで、私たちの本当の姿、光、壮大さのようなものを完全に見失ってしまう。

深い欠乏感を補填しようと躍起になって競争意識をもち、本来の壮大さ、光を見失っている私の姿。

この姿の惨めさが、これまでになく際立って感じられてきた。

 

 

それと同時に、この惨めさが私たちにふさわしいものではないことを知っている感覚も内側にあることに気づかせてもらえた。

 

私たちは一つだとか心はひとつだと聞いても、聞くだけだと実感がわかない。

けど、この惨めさを感じきったとき、「本当はそうじゃない」「この惨めさが私たちではない」(私たちはMagnitudeだ)という記憶のようなものが湧いてくる。

 

その記憶を取り戻して、「そちらを選びたい。この惨めさを選んでる自分が間違ってることを望みたい」という心の奥底からの叫び・欲求にふれるために、
あらゆる関係のなかで、この分離と競争意識をもっていることの惨めさを直視する必要があると感じる。

 

そのプロセスのなかでは、やはり当たり前のように、この惨めさにまつわる激しい感情や、醜い思い・感情も上がってくることがあるんだろう。

 

でも惨めさを直視し、惨めさを手放す決断をし、光や壮大さを思い出すためにこのプロセスがあるのだということを覚えておけば、何が上がってこようとそれをAllowしていける気がする。

 

 

しょうこさんという、自分にとってわかりやすい形で「分離と競争意識」を見せてくれる相手がいたおかげでこういうことに気づかせてもらえる。


そしてこれはしょうこさんに限らず、ほとんど全ての相手にたいしてもっている分離の意識で、それを使いながら絶えず自分を惨めな状態にとどめようとしてきた。

 

この、自分が絶えずやってきたことの惨めさを認めること、
そして認めたときに感じる「真実はそうじゃない」「私たちはこの惨めさではない」(私たちはMagnitudeだ)という記憶に触れていくこと、
それを求めていくこと、その壮大さのなかに広がっていくこと。

 

それを経験していきたいし、

「競争意識があるんですよね〜」みたいに言いながらそれを温存し続けることが、

いかに無駄で莫大な「損失」(相手と自分の真実・壮大さ・光を見失っていること)なのかを忘れずにいたい。

 

損失は本当には起こっていない(らしい)けど、あえて損失の経験をし続ける必要はない。

 

エス様、どうかお願いします。

この私たちの真の姿、光、壮大さを思い出すために必要な全てをガツンと送ってください。