追い込まれた感覚
前の記事で書いた「追い込まれたように感じ始めている」というのは、
今まで外側に無意識に期待していたようなことが、もはや期待できなくなる、その事実をつきつけられるような、そういう感覚。
そのひとつについて、インストゥルメントフォーピースをやるといい感じがしてやってみた。
「A.エリーがリビングミラクルズの人たちに受け入れられて称賛されているのをみるとき、
B.怒り、嫉妬を感じる。
C.俺を赦さず受け入れようとしないエリーが責められるべきで、
俺を赦してないくせに受け入れられているエリーが責められるべきで
俺を赦していないエリーを受け入れているリビングミラクルズの人たちが責められるべきで
私は自分が打ち負かされ、大勢の有力な人たちから無価値だといわれ、失格の烙印を押されるのを恐れている。
D.これは、私たちはバラバラの存在で、たまものを奪い合い、勝利しなくてはならない戦争状態にあることについて、私が正しいことを証明している。(誰かが勝つと、誰かがすべてを失う)」
私は今のこの感じを好む?
「好まない」
もし好まないのだったら、この起こっているように見える事象を超えて見ることを望む?
「起こっているように見える事象を超えて見ることを望みたい」
超えて見ることを意志する?
「起こっているように見える事象を超えて見ることを意志したい」
この起こっているように見える事象について私が演じている役割を
罪悪感なしにみることができることを学びたい?
「この起こっているように見える事象すべてについて私が演じている役割を、罪悪感なしに見ることを学びたい」
この知覚されているすべてについて、正しくありたい?幸せでいたい?
「この知覚すべてについて、幸せでいたい」
私の投影が、私が無力さを感じる理由であり、
「C」が私のいやな気持ちの原因のように見える理由だ。
これらすべては、「D」という信念の結果としてあらわれたものだ。
それはこの個人の私の信念というのではなくて、もっと深い、背景にあるI AM の信念。
「A」に嫌な気持ちになるということは、
「C」が私の罪悪感・恐れの原因だと見ようとするひとつの企て。
外側に私の罪悪感・恐れの原因があると見ようとするひとつの企て。
でも実際には、私の罪悪感・恐れは、(I AMとしての)私の内側の決断の結果にすぎない。
「このいやな感情・感覚は、私の内側の決断の結果だ」
「AやCにたいして嫌な感情を感じるのは、すべての原因が外側にあることにして、自分を源から、源の大いなるパワーから、遠ざかったまま・分離したままにしようとする(そう錯覚させる)ひとつの企てにすぎない」
この2つはセットにして初めて入ってくるような気がする。
「この嫌な感情の原因は、私の決断にある」だけだと、自分を責める方向に行くかも。
たんなるひとつの企てが進行中なんだと見れると、気が楽になる。
そしてこの2つが入ってきたとき、吹っ切れたような気持ちよさを感じる。
このI AMとしての私の決断の結果である、罪悪感・恐れのすべてをそのあるがままに受け入れて、聖霊のもとにもっていって、聖霊とともに見ていただく。
そしてその結果をすべて見きって、そうじゃないことを心底望むのか、その心からの望みが湧き上がってくるのかどうかを見極める。
今の望みがなんなのか。
そしてその望みについて、聖霊に助けてもらう。
自分ひとりでは自分の信念から自由になることができない。
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全般的な印象として、今のこの追い込まれた感じ、今まで世界に期待していた「価値」が失われるような感覚は、可能性に満ちたよきことのように感じている。