体験・実践と形而上学
合宿でラファエルがやってくれた形而上学のセッションは、自分にとってはまったく形而上学的な、知的なものには感じられなかった。
とても体験的なものに感じられた。
それがよりはっきりしたのは、先日のりこさんがみんなを招待してくれた「思考の逆転」のDVD鑑賞会のとき。
2018年の1月に真我なるハートに参加しようとしていたときに初めてこのDVDを見て、そのときは衝撃的でノートにとっていったのを覚えているけど、
今回「そのDVDをもう一回みる」というアイデアについてはピンとこなかった。
でもzoomの鑑賞会には参加してみる感じがしたので参加してみた。
久しぶりのDVD。
形而上学としてのディテールとしてはラファエルのセッションよりも詳細に語られていると思った。
でもあの合宿でのセッションのときに感じた、いきいきとしたいのちの感覚やライブ感、「実践のたすけになる感覚」は感じられなくて、だんだんあたまが複雑に、そして退屈に感じられてきた。
これは私が間違っているのかもしれないけど、経験としてはそういうものだった。
コントラストを感じた。
たんなる形而上学と、実践前提の実践のための形而上学、というふうなコントラストを感じた。
もちろんそのときどきで受け取り方も違うだろうし、タイミング的なものもあるかもしれない。
なぜラファエルのセッションではあれほど実感をともなった、体験的な感覚があったのだろう?
ひとつには、ラファエルの祈りによるかもしれないという思考もある。
彼がたびたび口にしている、
「これらの教えや形而上学すべての、実践的な適用とは何なのか?それを見せてください、教えて下さい」
という祈り。
そのこたえがラファエルをとおして表現されたのではないかな。
だからあそこまで体験的なセッションとして感じられたんじゃないだろうか。
のりこさんのブログでラファエルのセッションについて
「みんなの反応が薄かったことに私もラファエルも多少驚いたのでした」
と書かれていて、
少なくとも自分にとってはそうじゃない、
それどころかこれまで見聞きしてきたどんな「教え」よりも、体験ベースの実践的で超役に立つ「形而上学セッション」に感じられた、
ということを伝えたいと思った。
あのセッションの、ここまでの「役に立つ感」「たすけになる感」はいったい何なんだろう。
ラファエルが言っていたけど、
彼はこうした形而上学を知る以前にもいくつも奇跡を体験してきていたと。
でもあるとき、どうしても憎しみに囚われて身動きがとれなくなってしまったときに、
この形而上学を知る機会があって、
それをきっかけに開放と自由が感じられるようになったと。
その話を今思い出して、
やはりこの道ではジーザスの手配によって意識的コントロールの外で起こる奇跡の連続を体験させてもらうことが決定的に重要で、
それを尊重しない限りどんな知的な理解も「I know mind」に組み込まれてしまうんじゃないか、と感じる。
(思えば初めてDVDを見たときの興奮は、「おっしゃー、これで俺の武器は完璧になるぜ!」というような自我的な興奮が含まれていたかもしれない)
ラファエルのセッションはそこの順番・優先順位を間違えていないというか、
彼自身の経験にもとづいた奇跡とガイダンスの力と重要さ、それを助けるものとしての形而上学という位置づけがはっきりしていて、
だからここまで体験的な助けになるものとして感じられたのかな、と今感じている。
自分にとってはあのセッションを含む合宿での体験と体験的理解があったからこそ、輪島シューティングでの奇跡に導かれた(自分の感じ方や言動の全てをとおして)という確信がある。