聖霊のまなざしを選ぶ

コロナウイルスなどで混乱しているように見える世界と、赦しについて。

 

今の自分にとってめっちゃ助けになる内容でした。Eriko Hagiwaraさんが日本語字幕をつけてくださっています。ありがとうございます。

 

youtu.be

 

 

 

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以下、自分用の(抜粋)メモ。

 


心のなかで、知覚された世界の解釈ではなく、真実を選ぶことがいかにたいせつか。


肉体や知覚を否定する必要はなくて、
それらを知覚しつつ、
それでもなお選択する力はこころの中にあることにフォーカスできる。


その選択とは「すべてを聖霊とともに見る」という選択。


スピリットは私たちに、自分の外側や内側に知覚されていることから離れるように、否定するようにとは求めていない。それをしても心は癒やされない。

 
そうではなく、聖霊とただいっしょに見るという案を提供してくれている。

 

こう言っている。
「あなたのこの世界での唯一の機能は赦しです。
赦しはあなたが真のあなた自身を自覚し始めるための手段です。
赦しは世界とあなた自身を癒やすための手段です。」


そして赦しはあなたが努力して、
たとえば過去の経験や知的な理解にもとづいて
努力してなしとげるものではなくて、
赦しも聖霊から差し出されている。


聖霊とは、赦された眼差しのこと。

 
赦しを選択するとは、あなたが努力して何かや誰かを赦そうとすることではなく、
聖霊と同じ見方で見ることを選択する」
ということ。


「赦しは行為ではないから静か」。
赦しとは、頭脳を使って分析したり思考したりすることではなく、
ただ心の中で光とスピリットにつながること。


「外側でなにが起きているにせよ、
それは心の内側の自我の思考システムのなかで起きていることと
離れてはいない」
とわかるまで、それを続ける。

 
外側で起きていることが恐れを引き起こすわけではない。
自我の思考システムが恐れを引き起こしている。
それを隠すために自我は「世界」を使っている。
絶対に真の問題が解決されないように。


だから「この世界や誰かをなんとかすれば、恐れを小さくできる」というのは誤り。


恐れは自我の思考システムの内側にある。


じゃあその恐れの根本まで掘り起こしていく必要があるのか?
その必要はない。


今この瞬間、何であれ心のなかに浮かんでくる思い
それが私たちが赦すべきもの。赦しの対象。

 
もう一度、
赦しとは、いちいち「赦さないといけない」「手放さないといけない」と努力するものではない。


私たちが目指しているのは、一度なされたらそれで終わりの、決して揺るがない、本物の、真正の赦し。


そのためには赦すべき思考から距離をおいたり、
絨毯の下に隠して見えないフリをするのではなく、
その思考に向き合うこと。

 

恐れや心配、不安があることを認め、
聖霊とともにとどまってこのように言う。

 

「たぶんあなたは、私がこれを違った見方で見られるよう助けられると思います」
「たぶんあなたは、私がこころのなかで何が本当に起こっているのかを見ることを助けることができます」


スクリーンを赦しましょう。
そこには何もありません。


私たちのしごとはとってもシンプルで、
これら起こっているように見えるあらゆることのど真ん中で、
聖霊を選ぶという意志をもつこと。

これまで繰り返してきた同じサイクルを続けるのではなく。


それが時間のもっとも有意義な使い方。