聖霊の仕事

体験の記録。

トリガーは、
この道で経験してきたことを
否定されたという知覚。

体験的理解の経験と、「それを経験してきた・備えたオレという自己概念」を結びつけていた。
その自己概念(オレ)を否定されたという知覚。

(そのオレをつかって特別な関係も結んでいた)


とくに、すべて体験ベースで話しているつもりなのに
「キレイごと」と言われたことが非常に大きな怒りのトリガーになった。

そのときに明らかだと感じたのは
この出てきた怒りをトリガーになった相手にぶつけることと、
三者にスペースを保ってもらってそのなかで向き合っていくのを比べたとき、
後者のほうが確実に自分にとってたすけになるという感覚。

前の合宿でラファエルが教えてくれたエクスプレッションセッションについてのガイドライン

「相手にぶつけるのが間違いでもないし悪でもないけど、
それをすると自我を強化してしまうことがあるので、
仮に相手がそこにいてもまるでそこにいないかのように、別の誰かに向かってエクスプレッションすることが役に立つ」

というのは、本当に納得できると感じた。

目的ゆえに、たとえ相手にぶつけあっても癒やしは起こるのだろう。
でも第三者のたすけが得られるのであればそのたすけを受け入れたいと思った。


今回じゅんこさんがそこにいてくれたことが、本当にありがたかった。


スペースを保ってもらえることで、
純粋に自分の内側の感情にまっすぐ向き合うことができた。

誰かのせいにしたり誰かを非難したいという思いは、とくにその相手を前にしているときはその思いの回路がどうしても回り続けて、純粋に内側を見ることから気をそらされる感じがするけど、
その回路にエネルギーを注ぎ続けるのをいったんストップできるように感じられる。

スペースを保ってもらえることで。

そうすることで純粋に内側に向き合える感じがする。


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最初はトリガーについて話しながら、それによって感じ続けている感情を感じていった。

エクスプレスしながら、自分がどのトリガーに一番深い感情を起動されたのか、というのもより詳細に明らかになっていった。


そうして、ただ激しい感情(主に怒り)を感じるだけ。

解決方法はないと感じる。

これを感じてどうなるんだ。

 

4月の合宿のしょっぱなに怒りが湧いてきたとき、

自分のなかには「この感情に何とか対処して、捧げるなり昇華させるなりしなきゃ」という思考があって、でもどうにもならなくて、

ラファエルが「ただ上がってくるのをAllowすればいい」と言ってくれたのを思い出していた。


そしてどうしていいかわからないまま、ただ感情を浮上させて感じていたとき、
ふっとこのエクスプレッションセッションの前に見ていた
フランセスの新しい動画からのアイデアが入ってきた。

たしかに怒りをallowして受け入れるのだけど、
それを究極的な真実として受け入れるのではない、ということ。
ちゃんと真実を求めるということ。


そこから「この怒りの苦しみのすべてが真実ではないとしたら、本当のことを、真実を教えて下さい」というスピリットへの祈りがわいてきた。

その祈りをもったとき、
「この怒りではない真実」があるんだとしたら、
この怒りをいくら感じても大丈夫なんだ!
という開放がいっきにやってきた。

わけがわからない、無限のなにかに包まれているので
こんな怒り、どれだけ感じてもまったく問題がない。

そういう感覚がやってきて、
何かわからないけど癒やしと大きな幸せが入ってきた。

あの平塚のパーキングと同じような。


そのあと気づいたのは、
この怒りと苦しさを「真実だ」としているからこそ、
先が見えない恐ろしさゆえに
それを感じきらないよう、すべてが浮上しきらないように
セーブしようとしていたということ。

それが真実ではなく、真実は他にある、そのことを見せてほしいと求めたとき、
逆にこの怒りをいくら感じきっても完全に大丈夫、
そういう愛に包まれているのが感じられてきた。

それくらい私たちは完全に愛されている。

この「おそろしい」感情を、無制限に感じまくっても全く大丈夫なほどに、愛され、守られている。

それがとても自由で、うれしいと感じる。

 


ここまでの感覚は、
ひとりで心を見ても絶対に感じられなかった。

理由はわからないけど確実にそのように感じた。

じゅんこさんがスペースを保ってくれていたこと、
そのじゅんこさんの存在を信頼してエクスプレッションするということが、
スピリットへの信頼をわたしの心に思い起こさせてくれた、
スピリットへの信頼へとつないでくれたように感じた。

だからこそスピリットへ手を伸ばし、その無限の愛に触れることができたように感じた。

聖霊代理人としてじゅんこさんが目の前にあらわれてくれているように感じられて、泣けてきた。

肉体をもった人にたいして感じた初めての感覚だった。


怒りとか罪悪感とか、完全に感じきっても大丈夫なんだ・・
と感じながら、
目の前のじゅんこさんだけでなく、
あらゆる人がこうした深い闇の感情に気がつくためのトリガーとしてもたすけになってくれていて、
こうして聖霊のふところのなかに感情を開放していくためのたすけになってくれていると感じられてきた。

人の中に見ている闇は、ぜんぶ私の闇だ。


「2人以上集まるところにイエスはいる。」
「奇跡は人と人のあいだで起こる。」

という言葉を思い出していた。


聖霊ジーザスはこういう奇跡をうずのように何度も何度も繰り返しながら
私たちをステップバイステップで納得させていってくれるとラファエルが言っていた(ラファエル本人の話か、誰かの話として言っていたかは覚えていない)。

まだまだ隠された闇が深いけど、そこに心を合わせていきたい。