具体的な状況、形而上学、信頼

動揺の例。
れいさんへのインタビュアーをしていて、
「終わった」といったあと
インタビュアーがラファエルに変わり、
すべて終わってから
「あそこで終えるのはまったく不完全だった(まだぜんぜん終えるタイミングではなかった)」
といわれたとき。


大きな無価値感。
大きな悲しみ。
大きな怒り。

こうした感覚感情が上がってくるのをゆるしながら、
これらすべてが
外側のトリガーからではなく、
内側から来ていると見始めることはできる。

そしてこうした「問題」の解決・こたえは、今この瞬間同時にここにあると信頼し始めることもできる。それが何かまったくわからないとしても。

「わたしが動揺するのは、誰かまたは何かが、わたしが内側に見ることを拒んでいる信念を映し返しているときだけだ」(from インストゥルメントフォーピース)

「わたしは無価値だ」という信念。
「わたしには悲しみに沈む正当な理由がある」という信念。
「わたしには怒る権利がある」という信念。

そしてそのすべてが正当化できるだけの不当な扱いを受けているという信念。

『あなたが私をこのようなものにした。
そして、あなたが私を見るとき、
私がこのようなものであるがゆえに、
あなたは有罪を宣告されている。』(コースのテキスト T31,5,5,3)

=『あなたの兄弟が永遠に咎めを受けることを保証する主要なレッスン』(T31,5,6,1)
『自分である憎むべきもののゆえに依然として兄弟を咎めているあなたにとって、兄弟は自分の罪の象徴ということになる』(T31,5,6,8)

内側の奥の奥にあるこの信念。
そのさらに奥にあって、これらの信念をつくらざるを得なかった、
わたしには耐えられないほどの罪があるという信念。
そこから投影が起きている。

それへの解決・こたえが、今同時にここにあることを信頼することができる。
プロアクティブ(率先的)に。

Doer(行為者)としてしか見れなかったあの知覚の中。

そこにたいする救い、解決(こたえ)が今ここに同時にあると信頼できる。

それが何なのか自分にはわからなくても。
(解決を今ここで見せてもらうということは、あらゆる自己概念の解除と同じことなのか・・・という感覚がある)

Doer(行為者)との同一化から解放されないかぎり、
苦しみからの自由はないと感じる。

その解決が、今この瞬間同時に与えられていることを信頼できる。


『今や聖霊は、「心の平安が自分に与えられるためには、自己についてのこの概念が取り消されなければならない」ということをあなたが理解するのを助ける方法を見つけなければならない』(T31,5,8,3)


『また、あなたが何か別の存在だと教えることを目的としたレッスンによらなければ、
その学びは取り消されない。
そうでなければあなたは、
自分が今信じているものと交換に、自己を完全に失うよう求められることになり、
さらに大きな恐怖が、あなたの中に生じることになるからである』(T31,5,8,4)

自己概念の取消だけでなく、同時に真に何者なのかということを教えてもらえる。
やさしい。


『それゆえに、聖霊のレッスンの計画は、いくつもの簡単なステップで構成されている。
時にはあまり容易ではないことや、いくらかの苦労もあるが、すでに学ばれたことが粉砕されるようなことはなく、ただ、それを証ししている根拠と見えるものについて翻訳し直されるだけである。』(T31,5,9,1)

たしかに
具体的な状況のなかで、
今この瞬間にある解決(こたえ)を信頼することを選択したとき、
その知覚映像が「翻訳し直される」という感覚があった。

ついさっき「それを(無価値感や悲しみ、怒りの正当性を)証ししている根拠」と思えていた知覚映像が。


『もしかすると、この概念を闇の中に保っておかなければならない理由は、光の中ではそれが真実でないと考える者が、他ならぬあなただからではないだろうか。』(T31,5,11,1)

『兄弟の姿を選択したのは、わたし自身かもしれない。』(T31,5,12,2)(「兄弟のしていないことを赦す」)

それくらいすべてを、兄弟の姿も含めて、わたしの心の内側から投影している。

(「その罪ある兄弟をつくったのもわたしだった」
→「わたしも兄弟と同じく罪あるものだった」=第二段階。さらに先がある。)


『心は、自分の考えていることの一切が反映しているのは、自分がいかにして作り出されたいかなるものであるかについて自分が感じている深い混乱であるということを、学ぶことができる。

そうして、自己の概念は、心が知らないことについて漠然と答えるように見える。

あなたの自己を象徴の中に探すのはやめなさい。
あなたであるものを表すことができる概念などあり得ない。』(T31,5,14,6)


『自己の概念はあなたが目を向けるものすべてを包括しており、
いかなるものもこの知覚の外側には存在しない。

もしあなたが何によってであれ、
傷つけられることがあり得るとすれば、
あなたは自分自身の密かな願望が描かれた絵を見ているのである。
それだけのことである。

そして、いかなる種類の苦しみであれあなたが苦しむとき、
あなたは「殺したい」という自分自身の隠された欲求をみているのである。』(T31,5,15,7)


『すべての概念が疑われ、疑問視され、いずれも光に耐えうるような前提に基づいてはいないと認識されるとき、真理は、罪悪感から自由で清浄な自らの聖域に自由に入っていくことができる。
以下の声明以上に、世界が聞くのを恐れているものはない。

「私は、私であるものを知らない。
だから、私が何をしているのか、
どこにいるのか、
あるいは、
この世界や自分自身をどのように見たらよいのかも、
知らない。」

だが、この学びの中で救済が生まれるのである。
そして、本来のあなたであるものが、
あなたにそれ自身について教えてくれるだろう。』
(T31,5,17,5)

 

具体的な状況で感じていることについての助けを求めた中でだと、
これらのテキストの内容や形而上学が非常に役立つと感じる。

具体的な状況で感じていることについての助けを求めない中で、
たんに形而上学についてだけ学んでも力が感じられないのだろう。

そして最終的な「解決(こたえ)」は、知識や分析のなかにはなくて、
信頼のなかにある。

自分が何かをしているように見えるときでも、
自分が何をしているのかわかっていなくていい。
そこにしか救済はない。