途中まで参加した今日のzoomでの話し合い。

こういう話し合いのなかで
「こういうふうにしていく必要がある」(別の誰かはこういうふうにできていた)
「こういうのを超えていく必要がある」(別の誰かはすでに超えてきている)
とか、そういう言葉がでたとき、
罪悪感とともに
どこか、自分が自分を今よりマシなものに改善していかないといけない、
というような思考が上がってくる事はあると思う。

そのときに、フランセスのこれを思い出す。


God Is The Light In Which I See

(10:11あたり〜
光の体験のなかで大きな恐れを感じたことについて、
「自分自身とても謙虚になる経験だった」という話のなかで語られていること。) 

(光にたいして恐れを感じたことについて)
「まだまだわたしの心にはなされるべきことがたくさんある」

という認識があったとき、
でもそれは

「わたしがなすこと」

ではなくて、

「スピリット・ジーザスが私の心についてなすべきことがたくさんある」

ということ。


フランセスのこの話を思い出して、
なのでわたしのやることは、
自分の判断にもとづいて何かを改善しようとしていくことよりも、

「とにかくこころを開いていくことでしかない」

と感じた。

スピリット・ジーザスが私の心についてなすべきことをやっていただけるように。

 

そして「スピリットに私の心についてなすべきことをやっていただけるように、とにかく心を開いていること」というのは、

『「私は何も知らない」かつ「注意深くある」、という「信頼」の状態を意志すること』
(フランセスの「Trust Is Total」より。https://youtu.be/YsKzeu5-Y_Y

と同じことなのかなと感じた。

 

・・・思えばこれって、オデッセイの解説でラファエルが(デイヴィッドの話としてだったかな?)強調していた
「Trust」と「Open Mindedness」やな。(コースの教師のためのマニュアルより)

ほんまにそうなんや。

 

 

また、
先日の撮影旅中にラファエルが教えてくれた、

出てきた思いのあとに「〜とジーザスは言われた」「〜と主は言われた」と付け加えることによって、その思考が聖霊のものか自我のものかをみわけるというエクササイズ。

そのときは
れいさんほどには自分のなかでは強力なエクササイズに感じていなかったのだけど、
今日の話し合いのなかで、
リアルタイムでとても強力なエクササイズだと感じた。


誰かが何かを話す知覚をトリガーとして
「これはこういうことだろ」とか「オレは無価値なんだ」とか「〇〇が間違ってるんだ」とか
決めつける思考がほぼ無意識にわいてきたとき、
ともするとその思考にもとづいて、
次から次へと「ストーリー」を積み上げてしまいがちなことに気づく。

その最初の思考に気づいた時に、すぐに
「〜とジーザスは言われた」と付け加えてみると、

ジーザスはこんなん言わねえだろ!!」
「なわけねえだろ!」

とツッコむことができる。

そしてその思考に乗っかっていくのをストップできることで、
今この瞬間こたえは与えられているんだという方へ意識を向けること、
それを信頼する方へと内側へ意識を向けなおすことができる。

とても助けになると感じた。

とりわけ、リアルタイムで目の前で何かが展開しているように見えるときに、とても助けになると感じた。



どっちにしろ、私の知覚のほとんどは、

『いかなる種類の苦しみであれあなたが苦しむとき、あなたは「殺したい」という自分自身の隠された欲求を見ているのである』(T31,5,15,7)

こういうことだ。

今この瞬間すでに同時に与えられているスピリットのこたえ(解決)を信頼すること、
自己概念を失うことによってしか、
平安は得られない。