信頼合宿

今回の合宿。
いろいろあったけど、自分にとって一番の解放となったのは最後の数分間のコミュニケーションだった。

そしてこの数分間のコミュニケーションに向かって、
すべてがステップ・バイ・ステップで導かれて準備されていたんだと感じた。

それまでの何日か(何週間か?)で体験させてもらえていた、
信頼についてのガイダンスとマインドトレーニング。
そのおかげで、
あの時点で最大限ゆるせるだけの
深い殺意を
信頼のなかで認識して表に出すことができたと感じる。

兄弟があとで教えてくれたように、
あの数分間のコミュニケーションは、
信頼の反映として起こったと感じる。

特定の人を対象にあらわれている深い殺意を認識して口にして、
半身がもどってきたような感覚。


そして
殺意があるのを認めたなかでも、そのまわりに信頼があって、
その殺意の対象である相手を心底抱きしめたいという思いが上がってきた。

殺意を抱いたまま、抱きしめたいという衝動を感じた。

この殺意を隠すことなくallowさせてくれる、その対象としてあらわれてくれていること、
殺意をallowさせてくれることによって自分の全体性が戻ってくる感覚、
それをさせてくれることにたいするありがたさ。

 

その後帰り道で感じたこと。
自分のなかにある殺意を完全にallowしていると(具体的な誰かを対象に具体的に感じてallowさせてもらえるのがありがたい)、
逆に自分が誰かに殺意を抱かれても大丈夫なんだという自由が感じられてきた。

誰かに殺意を抱かれるくらいの自分のダメダメさ、悪や罪(のように見えるもの)が自分のなかに知覚されても大丈夫だという感覚。

この感覚はとても自由でうれしい。

そのような悪や罪、殺意の知覚がありつつ、それと同時にそれらを完全に超越したこたえ・解決が、今ここにあることを信頼することができる。

悪や罪の知覚、殺意を抑えつける必要はない。
それらを知覚しつつも、
今ここに同時にある「真のこたえ」を信頼することができる。
そのことに本当に力を感じる。

「本当のこと」「真の解決・こたえ」「真のリアリティ」を、
たとえそれが何なのか今は知覚できてなくても
それが今ここにあると信頼するからこそ、
恐ろしくみえる恐怖や殺意が「本当のことではない」と受け入れることができて、
だからこそそれらを完全にできる限りallowできるんだ、という感覚がある。


あのzoomの時点ではまだ準備ができていなかった。
そのあとフランセスのYouTubeを通じてもたらされた信頼についてのガイダンス、スペースを保ってくれた兄弟からのたすけ、
日々や撮影旅でのマインドトレーニングをとおして
信頼が醸成されていたからこそ、
あのような信頼のなかで殺意を認識して表現することが可能になったと感じる。

以前の関係性は完全にマスク上のものだったことがコントラストではっきりわかる。

 


目的は自分が何なのかを知ること、兄弟姉妹が誰なのかを教えてもらうことを通して。
そして今この瞬間の信頼が、道の方向性を示してくれる。

(合宿をしめくくるじゅんこさん、ラファエルのコメント)

 


あと、映画ルーシー。

明確な目的と、チューニング。
それがそろったとき、方向性が示される。

気を散らす必要がなくなる。

ありがとうございます。

 


父との関係においても、
自分には本当にどうしていいかわからないんだ、、ということが強く感じられてきた。
本当に無理だ。

これまでは、自分で無意識に「解決への方向性」を決めようとしていた部分が大きかったと感じる。それを押しつけようとしていた。

いやいや、完全に無理、ノーアイデアだ。

自分にできるのはこたえが今この瞬間すでに同時に存在していること、
それがスピリット・ジーザスによってすでに与えられていることを信頼することしかない。

それがわたしの力。

ありがとう。