21日のブログ

(21日に書いてアップしていなかったブログ)

クラスから退いてから、気づいたことがあった。
これまで、生まれてからずっと、
自分が属すグループ(具体的なグループじゃなくてたんなる頭の中の区分であっても)
対その他グループというふうにわけて、
自分の側、自分の属すグループがただしい、
というふうに敵をつくってtake sidesしようとし続けていたということ。

ものごころついた頃は母をはじめとした家族に完全適応しようとしていたので、
「私のグループ」は家族だった。
それを特別視・絶対視して、世界の「それ以外」とは違う、こっちのが優れている、
というふうに捉えようとしていた。

今感じるのは、
こういうことに気づいて、
いったん自分のあらゆる属性を外す必要がある、外したい、ということ。

これまでやってきたような、どんな「グループ」にも属したくない。
take sidesしたくない。

この裸一貫の、自分自身のフィーリングとスピリットがあるだけの状態で、目の前にあるものや人や世界にどう向き合うか、
それだけに集中したい。

そのなかで、これまで学んだこと、体験してきたことが役に立つことはあると思う。

でも、「私はこういうところに属している」「この側に立っている」みたいな
無意識につかんでいる前提をていねいに注意深く外していきたい。

そして今この瞬間の信頼のなかだけに耳を傾けていきたい。

裸一貫で、この身一つで、目の前の世界に向き合うなかで、耳を傾けていきたい。


この流れは、前のブログで書いたことと並行して起こっている。

レッスン69「私の不平不満が私のなかの世界の光を隠している」
をやったとき、父との関係をとおしてそれが本当だと実感させてもらえた。

今まで無意識に周りの世界に「ダークネス」の原因があると見て、責めていた。
その今まで見えていなかった部分が、どういうわけか(ある程度まで)視界に入ってきた。

レッスンの文章のなかにあった「暗い雲」(不平不満)は、
他のどこでもない、私の内側にしかなかったんだ・・・
というやつ。

この気づきも、裸一貫になるんだ、という方向性を助けてくれている。

それと、この流れすべてのなかで
漫画「鬼滅の刃」がすごく助けになっている。

炭治郎の心のあり方、
鬼や人間問わず、すべてのキャラクターへ、その言動に関わらず深い愛が注がれているのが感じられること、
最後には愛のなかで消えていく、愛しか残らないこと。

みるときの心のアップリフティングな感覚が、
これもスピリットの導きなんだと確信させてくれる。