誰が誰なのか、私にはわかりません。
誰か他の人の言動の動機を詮索したり判断したりするとき、それはすでに自我、というDavidがどこかで話していたという言葉を覚えていたい。
その誰かという知覚をとおしてあらわれる
自分自身のフィーリングと
すべてを知っているスピリットだけに集中していたいし、
そのときのほうが軽くてシンプルで楽だと感じる。
自分には自分の内側で引き起こっていることが本当は何なのかわからない。
「自我があなたに知ってほしくない、兄弟についての真実」
「誰かに会うとき、それは神聖な出会いであることを思い出してください。
あなたが彼を見るとおりに、あなたは自分自身を見るでしょう。
あなたが彼を扱うとおりに、あなたは自分自身を扱うでしょう。
あなたが彼について考えるとおりに、あなたは自分のことを考えるでしょう。
忘れないでください。
あなたは彼のなかに、自分自身を見出すか、自分自身を失うか、どちらかなのです。」
「キリストが複数いるわけではなくて、
ただひとりのキリストがいるだけなのです。」
「大規模な自我のプログラムが心のなかで進行中なんです。
あなたは気づいていませんが、
あなたがいっしょに住んでいる人々、
交流する人々、
今ここにいる人々、
この世界中で目にする人々、
彼らは本当にあなた自身なんです。
でもそれを純粋な光ではなく肉体のように見せる
大規模なプログラミングが働いているのです。」