エスちゃん、
昨日起こったことも奇跡じゃったんじゃろうの。

朝起きたら父の書き置きがあって、
以前手術した心臓の症状がでたけえ病院に行ったって書かれとったんじゃ。

ほいでそんときに
父の死っていうアイデアが心の中に入ってきたんじゃけどの、
そんときにの、
なんでか知らんけど,
思わずしれず、
わしらはたとえ死んだとしてもみんなにささえられサポートされとるんじゃっていう感覚が感じられてきたんじゃ。

具体的に思い出したことは
かなえさんの合宿についてのミーティングをみんなでしとるときに
「お父さんもいっしょな感じがする」とかみんなが言うてくれたり、
ミーティング中にひょっこり父が画面に映ったときに
「イエスじゃ」って言ってくれたりしとった
そういうシーンが思い浮かんだんじゃけど、
なんかそういうのも超えて
わしらは孤立しとらん、
みんなにサポートされとるんじゃっていう感覚が入ってきたんじゃ。

ふだん父はずっと家に一人でおるし、
わしもほとんど家と仕事場の往復ばかりやし、
人との関わりがなくて
わしらは孤立しとる、っていう考えがあったんじゃって気づいた。

でもこのとき、
父の死っていうアイデアを考えたときに,
ああ、そうじゃなかったんじゃ、
なんか知らんけどわしらは二人ともサポートされとるんじゃの、
っていう感覚が、
どわっと入ってきたんじゃ。

ほいでなんでか知らんけど、
父がこのことをわしに教えてくれとるようにも感じたんじゃ。
わしらは孤立しとらんのんで、
みんなにサポートされて守られとるんで、
それを忘れちゃいけんでって。

最近ずっと、この父という存在に向き合うなかでいろいろなことがあったと感じとったけど、
そのなかで見えとらんかったまわりのこと、
わしらのまわりから与えられとるものに、
ふっと気づかせてもらえたような、
焦点がふわっと、ほっとゆるむような、
そういう感覚を感じさせてもらえたんじゃ。

ありがとうの。

ほいで、
勉強会は今月不参加にしようと思っとったんじゃけどの、
この感覚がきっかけになって、結局参加することに決めたんじゃ。

そのときに映画のことも思い浮かんだんじゃけどの、
この前の合宿で撮ったであろう映像たちの翻訳が必要だったら
それをやらせてもらうことについてイメージしたとき、
何でかわからんけど
ありがたい、っていう涙が出てきたんじゃ。

そんときだけかもしれんし、
実際やるとなったらまたいろいろでてくるかもしれんけどの、
でもほんまに何なんかわからんけど、
ありがたいっていう涙じゃったんじゃ。

勉強会申し込みの締め切り日にこれが起こったんも、
あんたの采配なんかいの。

わしにはわからんけえ、
あんたを信じてついていってみるわ。

ありがとうの。