時間の誤用

エスちゃん、
今のレッスン90でいわれとる「時間の誤用」っちゅうことについて
何か気づかせてもらえたことがあるように感じとるけえ
聞いてくれや。

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ワークブックレッスン90.3.2

「私にはいくつもの問題があるように見えるが、
その理由は単に
私が時間を誤用しているからだ。」

「私は
問題のほうが先に生じて
それが解決されるまでには時間の経過が必要だと信じている。
問題と解決が同時に起こっていることが見えていない。」

「その理由は
問題とこたえが時間によって引き離されることのないよう、
神がこたえを問題と同じ場所に置いたことに
私が気づいていないからだ。」

「私が頼めば、聖霊はそのことを教えてくれるだろう。
そして私は
『解決されていない問題』を私が持つことは不可能なんだということがわかるようになるだろう。」

「私はこれが解決されるのを待つ必要はない。」
「私が受け入れれば、この問題への答えはすでに与えられている。」
「時間はこの問題とその解決とを分離させることはできない。」
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このまえドラム叩きよったとき、
どうしてもうまくできんフレーズがあったんじゃ。
そのときにの、
自分が練習することによって
「このフレーズがうまいこと叩ける自分」になろう
としとることに気づいたんじゃ。

そんときにの、
かなえさんの合宿についてみんなでミーティングしよったときに、
持っていくものについて話し合いよったときのことを思い出したんじゃ。

あんとき
聖霊にたずねるのは後にして、とりあえず今あるアイデアを出し合おう」
みたいになっとったんじゃけど、
その出し合う状態がめっちゃ不毛に感じとったんよ。
これになんの意味があるんかって。
つながらずにやることに何の意味があるんかって。

なんでか知らんけどめっちゃ不毛に感じとった。

ほいでその不毛さと、
『自分で練習することによって、「このフレーズを叩ける自分」になろうとしとること』
が同じように不毛じゃと感じたんじゃ。

そんな「自分」
なんの意味もないやんけ、って。

めっちゃ不毛なことをしとるように感じた。

ほいで少しの時間じゃけど、
このドラムを叩くということについても
自分のその野望(「うまくたたける自分」になること・そういう自分に変化すること)を手放して、
神のあらわれとしてあらわれるものがあるんならあらわれるように、、
っていう感じで演奏してみたんや。
ほしたら自分自身の想像や期待を超えて、「練習の結果」とかいう想像のレベルを超えて、
気持ちよく正確なビートが刻まれていきよった。

ああ、ぜんぶそういうことなんかいの、とそんとき思ったんじゃ。

 

ふだんの生活ん中じゃと、
わしはどこか根本的に価値がない存在じゃと感じとる。
とくにふつうの生活や家族を築いとる人らにたいして。

じゃけえわしは彼らにたいして
何かをスピークアップする価値はないというふうに感じとる。
(学んどる仲間相手には何か言えるかもしれんけど)
(これって聖霊に使われている状態ではないよな。
この価値のないのが自分なんじゃ、って言い張っとる。)


ほいでこの「問題」をもっとる自分が
いつか「問題のない自分」にならんといけん、
そのためには時間の経過が必要で、今その時間が流れとるんじゃ、
というように見とる。

(形的には、いまわしはこの道を歩んどるんじゃ、学んどる最中なんじゃとか、そういう言い方をしたりする)


でもそうやって
時間の経過が必要じゃっていうことを現実のことにして、
自分の決断とか意志を「時間の経過が必要という現実」より下に置いとんじゃの、
って感じたんじゃ。

そうやってマインドがさまよい続けることをゆるすことで、
「無価値という問題をかかえた自分を維持すること」を続けよんじゃの、と。

そうやって時間を無為に過ぎさせようとしよる。
時間ちゅうもんを誤用しよる。

 

問題のある自分
から、
いつか
問題の解決された自分
になろうとしとって、
そのための時間が今流れとる、
ということにしようとしとる。


でも聖霊・神につかわれること
には
時間の流れは関係しとらん。

今この瞬間、聖霊・神にあけわたすってことは、
「問題と同時に与えられとる解決を、今受け入れるで」って
その意志をしめすことなんやな。

フランセスの言っとった信頼ということやな。


ドラム叩くときは
もう目の前のそれを叩くことしかやることがなくて、
それをどう叩くかだけやから(自分の野望のためか、神にあけわたすためか)
このことにわかりやすく向き合えたんかの。


エスちゃん、
このことを深く、
心の底から深く理解したい。