Dive into Freeing Oneness
イエスちゃん、
この前、ラファエルに会う機会を与えてもらえました。
ありがとう。
スターバックスで席に座って、
わしの中にあったもんをエクスプレスさせてもろうとったんじゃけど、
その中で
「わしは(わしの定義による)『ふつうの人』にたいして劣等感無価値感を感じとって、そういう人らにたいしてスピークアップする価値がないと感じとることに気づいたんじゃ。
いっしょに学んどる仲間とかには何か言うことはできても。
ほいでこういうのにはもううんざりしとって、この状態を超えた未知へと踏み出していきたいと感じとる」
「その未知に踏み出したとしたら、わしのそういうふつうの人にたいする態度・あり方は変わらざるをえんのじゃろうと感じとる」
こういうことを話したんじゃけど、
そのときにラファエルが
「『ふつうの人』とか、それにたいする『態度』とかっていうコンセプトそのものが、そもそもいらんのんで」
「そういう『コンセプト』とか『態度』がある前提な限り、分離をみとるわけじゃから、おまえの感じとる無価値感からは逃れられんで」
こういうことを言ってくれたんじゃ。
うん、ほんまにそのとおりじゃの、と思った。
ほいでそんときの、
そういう話をしてくれよるラファエルと、
まわりにいっぱいおるカフェにおる人や構内を歩いとる人ら、
わしが「ふつうの人」っていうラベルを貼ってみとる多くの人ら、
そういう分離が一瞬消えたように感じられたんや。
ラファエルっていう人は、
わしにとってはいちばんスピリットに近いというか、
何も隠し事ができんし、
かつ、何をさらけだしても大丈夫ということを感じさせてくれる存在、
というふうにみとるところがあった。
そういう存在と、
わしが「ふつうの人」ってみとる、分離のラベルを貼って見とる人らに
違いがない、
何の違いもまったくない・・・
そういうふうに感じられたんじゃ。
一瞬じゃったけど。
その区別のない感じ、
そこでは「わしの態度」とかも消え去っとる、融合しとる感じ、
その感じがとてつもなくハッピーで、自由じゃと感じさせてもろうたんじゃ。
そのなかに飛び込んで消え去ってもええくらいのな。
この感覚は
ラファエルに会わせてもろうて与えてもろうた、
莫大なギフトのように感じさせてもろうた。
ちゅうのはの、
最初ラファエルに話しとったのは、
「わしは自分が何なんか、何をもとめとるんかわからんようになった」
「今はただ、マニュアル23章、とくににこの言葉、
『完全に贖罪を受け入れたひとりの者』
これだけにすごく惹かれとる」
という話じゃったんよ。
その話をしたときにラファエルは
「それでもわしらの願いっちゅうのはすごい強力なんで」
「お前はほんまに何を求めとるんや?」
こんなふうに言うて、
わしがわからんようになったって言っとる「真に求めとるのは何か?」っていうところに焦点を向けさせようとしてくれとったんや。
わしは以前は「完全な自由」とか「完全な愛」とかを求めとるって言いよったけど、
今はそれは単なる言葉にしか感じられんと感じとった。
じゃけえ
「自分が何なんか、何を求めとるんかもわからん」
「ただマニュアルの23章、『完全に贖罪を受け入れた者がすでにおる』『贖罪は終わっとる』っていうアイデアにだけはすごく惹かれとる」
って言っとったのは、自分にとってはすごくええ感じというか、地に足のついた、自分に正直な感じじゃと感じとった。
でもラファエルが「ほんまに求めとるもんは何や?」っていうとこへ焦点を向けさせるけえ、
あえて言うなら「完全に贖罪を受け入れたい」っちゅうことかの、って話しとったんじゃ。
それがこの一瞬の超絶ハッピネスを感じさせてもろうたとき、
ああ、これじゃ、わしはこれを求めたいんじゃって
感じさせてもろうたんじゃ。
わしの目的はこれじゃって言えるな、と。
今日レッスン91をしよって、そん中にこういう言葉があったんじゃ。
「肉体に捧げることをやめた信仰心を今度はどこへ向ければいいのか、
その対象を実感する必要がある。
なにか別のものについて実際に経験する必要がある。
もっと実体があってもっと確実な何か、
あなたの信仰の対象としてもっとふさわしく、
真に存在している何かである。」
ここに書かれとるような
わしの信仰心を向けたいと感じられるものを、
こん時実際に「実感」「実際に経験」させてもろうたんじゃと感じるんじゃ。
ありがたいのう。
ほいでこれはヒュージュギフトじゃって、
ありがとうってラファエルに伝えたんじゃ。
わしはこのとき感じさせてもろうた超絶ハッピネス、
自由にしてくれる分離のないワンネスを求めたい。
そこに飛び込んで消え去ってそれそのものでありたい。
これを目的としたいって強く感じさせてもろうたわ。
ありがとうの。